西暦1966年は悪魔元年だった...サミー・デイヴィス・Jrが信仰した「悪魔教」の実態 米
ローナ・ラフトいわく、「デイヴィス邸はいつも人でいっぱいだった。夜通しコカインやパーティ三昧だった」
ローナ・ラフトいわく、「デイヴィス邸はいつも人でいっぱいだった。夜通しコカインやパーティ三昧だった」 初めて会ったその夜、またそれ以降も、ラヴェイとデイヴィスは何時間も悪魔教の教えについて話し合った。NBCの『Poor Devil』が放映中止になったと聞いてラヴェイとハガーティはがっかりしたが、デイヴィスがすでに悪魔教を経験し、重要ポイントについて知っていることが分かると大喜びした。宴が終わって家路に向かう途中、すっかり昂揚した最高司祭は新任魔術師の献身ぶりを褒めちぎった。 それから数年間、デイヴィスはラヴェイとハガーティを度々招待した――内輪のディナー、大人数のパーティ、コンサート、タホ湖のほとりの別荘。ハガーティによると、最初の訪問時に家主が寝室を見せてくれるという嬉しいサプライズがあり、そこでラヴェイは度肝を抜かれた。枕元にはうやうやしく、任命式でデイヴィスに授与されたバフォメットの秘印が吊るされていたのだ。 時折デイヴィスはハガーティに色目を使った。一度ハガーティが少し太ったと言うと、デイヴィスはハガーティの身体を自分の方に向け、「なるほど、俺に言わせれば、しかるべき場所にちゃんとついてるよ」と言った。 デイヴィスの視線が他人に向いても、ラヴェイの嫉妬心を煽ることはなかった。ただし、『Poor Devil』でルシファーを演じたクリストファー・リーの場合は例外だった。オカルトの権化でもあるホラー映画のスター俳優を最高司祭もきっと気に入るだろうと考えたデイヴィスはディナーパーティを開いたが、思惑通りにはいかなかった。リーとデイヴィスの親しげな様子にラヴェイはやきもきし、リーの横柄な態度にも神経を逆なでされ、いきりたって口論をふっかけた。ドラキュラ役として最高の役者は誰か――リーか、ベラ・ルゴシか、というのが表向きの理由だった。すぐさまデイヴィスが2人の長身の客に割って入り、取っ組み合いの喧嘩にはならずに済んだ。 だが2人が一緒にいる時、羽目を外すのはたいていデイヴィスのほうだった。おすすめのアダルト映画を引っ張りだしてきたこともあった。「我々がその気になったと思ったにちがいない、と思いました」とハガーティは当時を振り返る。「私たちは節操ある人間ではなかった。ポルノも見ました。だからと言って、いきなりムラムラするわけでもありません。それは私たちの流儀じゃなかった」。 一方デイヴィスは『ディープスロート』の女優リンダ・ラヴレースと、彼女に暴力をふるっていた夫兼マネージャーのチャック・トレイナーをサミット・ドライヴに定期的に招待した。トレイナーの許諾を得て、デイヴィスはラヴレースと不倫関係になった。ある夜デイヴィスはポルノ女優にかの有名なフェラチオの奥義を伝授してもらい、無防備なトレイナーを相手に練習したこともあった。 友人の間では、デイヴィスが男性とも性的関係があったことは周知の事実だった。伝記作家のポール・アンカも回顧録の中でデイヴィスの性癖について語っている。カミングアウト、それもバイセクシャルだと公言するのは論外だった。デイヴィスはなんでも二択だった。白人か黒人か、ゲイかストレートか。 「今まで経験した中で、一番そそられたのはゲイの映画を見たときだ」とデイヴィスはアダルト雑誌ジェネシスで、ポルノ女優のマリリン・チェンバースに語っている。「俺には無理だったがね。たぶん、俺の中のホモセクシャルに対する潜在意識と折り合いを付けられないんだろうな……種馬のイメージがあるから、種馬とホモセクシャルを一緒にすることができないんだ」。 ラヴェイもデイヴィスの自由な性的嗜好を理解し、受け入れていた。極端なまでの究極な寛容こそがラヴェイの悪魔教の真髄だった。とはいえ、誰彼かまわずベタベタしてよいというわけではない。自分第一主義が推奨していたのは制約のない個人の自由、個々の力の追求だった。 ラヴェイから認められたことは、デイヴィスにとって目からうろこだった。何よりそれが2人の友情を物語っている。 2人の友情が芽生えた際、デイヴィスは1972年共和党全国大会でニクソンを抱擁した影響で、自我の危機を迎えていた。若い黒人活動家はこぞってデイヴィスをアンクル・トムと呼び、やがて市民権運動の指導者もその流れに加わった。デイヴィスは騒ぎを収めようと、友人のジェシ・ジャクソンが主宰するBlack EXPOへの出演を承諾したが、ステージに上がるとブーイングの嵐で迎えられた。 「俺の政治観が相容れられなくても構わない」とデイヴィスが言うと、さらに嘲笑を誘った。「だが俺が黒人だってことは誰にも否定させるもんか」。マイクを高々と上げて歌い出した。声には弁解というより、怒りの色がにじんでいた。「俺が正しかろうと、間違っていようと/この世界に居場所があろうと、なかろうと/俺は俺……」。 「セルマやトゥーガルーで行進した時の映像が残ってればなぁ」と、直後に受けたニューヨークタイムズ紙とのインタビューでデイヴィスは愚痴をこぼした。「俺はKKKの暗殺リスト上位10人の1人だったんだ。それが今じゃ黒人から野次られ、アンクル・トム呼ばわりされるなんて」。 インタビューは途中であらぬ方向に脱線する。デイヴィスが悪魔教の黒魔術ミサに出席したと公言したのだ。「黒魔術の関係者を尊敬する――たいした連中だよ」と彼は付け加えた。「シェイクスピアは、天国と地球には想像以上にいろんなことがあるとか云々言っていたが」。サタン教会でラヴェイと出会うのはまだ数カ月先の話だが、すでにデイヴィスは自分を、自分が抱える矛盾を受け入れてくれる仲間を見つけていた。 デイヴィスとラヴェイは知り合ってすぐに親交を深め、友情は悪魔教の理論を越えて続いた。ラスベガスにお忍び旅行をした際にはマリリン・チャンバースを交え、自分より先に相手を昇天させようと競い合った。70年代中期には、ラヴェイはオカルトに関する手紙や書籍をデイヴィスに送った。親しみを込めて添えられた結びの句――「地獄から敬意をこめて(Infernally Yours)」のYの部分は、悪魔の尻尾のようにくるりと巻いていた。2人は先割れひづめを持つ悪魔をOld Slew Footというニックネームで呼び合った。タップダンスの名手で足さばきの鮮やかなパフォーマーらしい、格式ある呼び名だ。 デイヴィスのほうも心からの感謝の気持ちを示した。1974年春、デイヴィスは思い出の地サーカス・スター劇場にラヴェイとハガーティ、アキノを招いて再会を祝った。誰かがカメラを取り出すと、ツィードのスポーツコートを着たデイヴィスは満面の笑みでラヴェイに頭を摺り寄せ、ラヴェイも思わず笑みを浮かべた。知る限り、これが唯一ラヴェイとデイヴィスが一緒に映った写真だ。そこには意気投合した完璧な2人組が映っている。ラヴェイは周りから認められたいというデイヴィスの承認欲求を満たし、デイヴィスは有名人の七光りで知名度を提供した。コンサート終了後、デイヴィスはホテルで3人に18金のブレスレットを贈った。「親しい家族」の証だと本人は言った。 ラヴェイはそれに応え、サタン教会に常任職を新設してデイヴィスを昇進させるという驚きの提案をした。北米全域を統括する幹部職だ。「今になって思えば、ダイアンもサミーも自分も、そうした考えに理性的に反応できたかどうかよくわからない」とアキノは後にこう記している。「だがあれは魔法のような夜だった。理屈じゃない」。 「お茶の間のみんな、楽しんでもらえたかな」 とデイヴィスは言い、『Sammy & Company』初回エピソードを締めくくった。「この番組の目的は、俺の世界を少し垣間見せることだからね」。 1975年4月にスタートしたトーク番組は思いもよらない形で幕を開けた。どんなに凝った演出でも、ハイになって支離滅裂なデイヴィスをごまかすことはできなかった。評論家から酷評された番組は、日曜深夜という墓場のような時間帯に割り当てられた。シナトラとシャーリー・マクレーンとデイヴィスの3人でアカデミー賞授賞式の司会を担当し、ほうぼうから酷評された後に放映された週1の番組は、デイヴィスにとって1975年が辛い1年になりつつあることを改めて痛感させた。 キャリアがあっという間に転落した上、デイヴィスは健康の衰えにも直視しなければならなかった。9月には四肢の痛みで1週間入院した――その前にも胸部の痛みで入院していた。コンサートはキャンセルが続き、時には公演の間に数日オフを挟まねばならなかった。ナイトクラブやカジノでの公演予約も途絶えた。 唯一の心の慰めが彼をさらに深みに陥れた。パーティだ。アルトヴィスは老いの痛みを和らげ、デイヴィスの最悪の1年をすぱっと断ち切ろうと、50歳の誕生日に盛大なパーティを企画した。 屋敷の中に入ると、デイヴィスが訪問客を次々迎える。みな子どものような服装だ――それが仮装パーティのテーマだった。つんつるてんの子ども用パジャマという、この日の主役のウケ狙いの仮装は誰の目にも留まった。他のから頭ひとつ飛びぬけたラヴェイのスキンヘッドはいやがおうにも目立っていた。いつもの服装――マントと黒装束――は、いかにも子どもが考えそうなドラキュラや悪魔の仮装という感じだった。 まるきり部外者だったラヴェイは、もはや内部の人間だった。ハリウッドに悪魔教や自分を売り込むのに精を出し、『Svengali the Magician』(のちに『Lucifer’s Women』に変更)では技術監修を務め、1975年の『魔鬼雨』でも同じくコンサルタントを務めた。撮影セットでゴリ押しした結果、アーネスト・ボグナイン、ウィリアム・シャトナー、ジョン・トラボルタと並んで「最高司祭」というセリフ付きの役を勝ち取った。そして今、こうしてサミット・ドライヴにいるラヴェイは、音楽業界の大物やハリウッドの重鎮、デイヴィスの側近や仲間とつるんでいる。仲間の1人となったのだ。 デイヴィス同様、バースデーパーティはラヴェイにとっても1975年を忘れるいいチャンスだった。悪魔暦10年に当たるこの年、サタン教会は2つに分裂した。ラヴェイは依然ブラックハウスで信者らを迎えていたが、その数は減少しつつあった。最高司祭も丸くなり、内省的になったと言われた。そんな時に足を運んだのがデイヴィスだった。閑散とした夜に何度か教会を訪れ、最高司祭は進んでオルガンを弾いた。 それとは対称的に、サミット・ドライヴのデイヴィス邸は今でも街一番の人気スポットだった。「いつも人でいっぱいだった」と、ジュディ・ガーランドの娘ローナ・ラフトは回顧録で振り返っている。「私たちはほとんど全員、一晩中コカインやパーティで大騒ぎしていた」。パーティのお供はセックスだった。1970年代にデイヴィスの愛人の1人だったキャシー・マッキーによると、「コカインの後は必ずセックスだった」。マッキーいわく、デイヴィスは旅行の際にコカインと興奮剤を詰め込んだバニティケースを持参した。「キャンディ・マンというサミーの愛称に、別の意味合いが加わった」。