エース石川祐希の<高校時代>。当時の強豪チームは短髪、練習着は全員そろいが大半だった。でもそれが勝敗に関わっているかというと…
パリ2024年オリンピックで<世界の頂>へ挑んだ石川祐希。彼はいかにして世界に誇る日本のエースになったのか? オリンピック出場にかけていた思いとは? そもそもどのようにしてバレーボールと出会ったのか――。石川選手の魅力に迫った『頂を目指して』から一部を抜粋して紹介します。 片手に本を持つ石川祐希選手。もう片方の手に持つのはやはり… * * * * * * * ◆自主性のなかで日本一を目指す 星城高校を選んだ理由はシンプルだった。 中学のときのJOC杯で一緒に戦った川口太一(かわぐちたいち)が、「俺は星城に行く」と言っていたのを聞いて、「一緒にやりたい」と思ったからだ。 卒業後に日本のVリーグへ進み、その後、イタリアにも一緒に行き、ドイツやフィンランド、Vリーグのウルフドッグス名古屋でプレーすることになる太一は、当時からバレーボールが上手でセンスも抜群だった。 高校でもチームメイトとして戦えたら面白いバレーができるだろうなと思った。 そして、太一だけでなく、同じ愛知選抜のメンバーだった山崎貴矢(やまざきたかや、※崎はたつさき)や神谷雄飛(かみやゆうひ)も星城高校に進むことを聞いたからだ。 中学で全国大会に出場するようになって、やっと春高バレーの存在を知ったばかりの僕は、どこが強いというのはよくわかっていなかったけれど、星城高校が2008年のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)で優勝したというのは知っていた。 中学で叶えられなかった日本一を目指して、いちばん楽しくバレーボールができるのはきっとここだ。 そう考えて、僕は星城高校を選んだ。
◆僕がいた「星城高校」のチームの特徴 「日本一」を目標にしているチームがどんな雰囲気で練習しているのか。 みんなはどんな姿を思い浮かべるだろう。 厳しい監督やコーチのもとでピリッとした空気感のなかで練習している様子を想像する人も多いかもしれない。 では、星城高校はどうだったか。 むしろ、その真逆だった。 監督の竹内裕幸(たけうちひろゆき)先生は厳しいときは厳しいけれど、頭ごなしに叱りつける人ではなかった。 先輩と後輩の上下関係もほとんどなくて、先輩は優しいし、学年に関係なく全員の仲が良かった。 練習も先生が考えたメニューだけでなく、選手主導で日々練習するチームだった。 バレーボールをするうえで、チームとして目標を叶えるために必要な決まり事はあるけれど、余計なルールは省いたチームだった。 象徴的だったのが練習着や髪型だ。 当時は全国の強豪といえば髪は短髪で、練習着も全員が決まったものをそろいで着るチームが大半だった。 多少違っていたとしても、色の指定はあって、時折チームカラーが赤や黄色で派手な練習着のチームもいたけれど、ほとんどは白や黒。 一方で、練習着も髪型も一切決まり事のない星城は、「派手だ」とか「チャラチャラしている」と思われていたはずだ。 でも僕は、練習着や髪型がバレーボールの技術向上や勝敗にかかわっているとは思わない。 見た目は派手に映ったかもしれないけれど、何より僕たちは日々、妥協せずに厳しい練習をしてきたと胸を張ることができる。