99歳の歌人・岡野弘彦「戦争の経験、結婚やひ孫の誕生、すべて歌に残した。歌一筋に生きることが出来たのは、折口信夫先生のおかげ」
民俗学者の故・折口信夫の最後の弟子であり、宮内庁御用掛や宮中歌会始の選者を長年務めたことでも知られる、歌人の岡野弘彦さん。あと半年ほどで100歳になる今も、歌を作り続けているという(構成=篠藤ゆり 撮影=藤澤靖子) 【写真】海を見下ろせる伊豆宅の書斎 * * * * * * * ◆御行幸に同行することも 2024年7月に100歳を迎えます。ここまできわめて自然に生きてきましたから、100歳と言われても「ああ、そうか」という程度で、特に改まった感動があるわけではありません。今はもう、宮中歌会始の選者も退き、宮中へ伺うこともほぼなくなりました。東京都内の高齢者住宅で毎日歌を詠みながら、心静かに暮らしております。 宮内庁御用掛としてお声がかかったのは1983年です。天皇陛下、皇后陛下をはじめ皇族方は、折目折目に和歌をお詠みになり、発表なさるのがならわしです。また、月次(つきなみ)の歌会もあります。 昭和天皇の頃よりその御相談役を務め、わりあい頻繁に宮中に伺っておりましたし、ときには御行幸の際、お供をすることもありました。 95歳までは伊豆で暮らしていましたので、宮中に御召があるたびに東京に行っていました。伊豆の家は、海に面した斜面の上に建っており、目の前に大海原や伊豆七島が見渡せる。そして海の彼方(あなた)に、心の焦点みたいな感じで、大島が浮かんでいるわけです。 毎日、大島とにらめっこしながら歌を詠んでいると、気持ちが広々とするんですね。あの情景は、私にとって非常に幸福な環境でした。
93歳のとき、妻が90で亡くなり、しばらく伊豆の家で一人暮らしをしていました。孤独な生活を送らなくてはいけませんでしたが、その孤独な思いのなかから生まれてきた歌もたくさんあります。 歌というのは、孤独や悲しみ、喜び、憧れなど、人として生きていくうえでのあらゆる感情を凝縮させる器ですから。 夢に顕(た)つ 女人高野(にょにんこうや)の春の塔。そこ過ぎてゆく― 妻のたましひ 95歳のときに受けたインタビューでは、毎日、30首は詠むと答えたようですね。今もまぁ、そのくらいは詠んでいると思います。日記をつけるようなもので、文章で日記を書く代わりに、短歌の形で書いているわけです。歌を詠むことが体に染みついているので、自然と歌が出てくる感じですね。 たとえば最近の歌ですと、こんなものがあります。 己が身のほろぶる日まで詠みつがむ。しらべすがしきやまと言の葉 97歳のときには、今まで詠んだ歌8000首を収録した本(『岡野弘彦全歌集』)が出版されました。できあがったら広辞苑みたいに分厚くて、本当に重い(笑)。そうか、一生かかってこれだけの歌を作ったのかと思い、ちょっと感慨深かったですね。
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