99歳の歌人・岡野弘彦「戦争の経験、結婚やひ孫の誕生、すべて歌に残した。歌一筋に生きることが出来たのは、折口信夫先生のおかげ」
◆尊敬する師の間近で徹底的に歌を学ぶ 皇學館普通科を卒業後、東京の國學院大學に入学しました。その頃から、世の中はどんどん戦時色が強くなっていった。私も兵役にとられましたし、級友のなかには戦死した人もかなりいます。戦後しばらくは、「自分は生き残った」という片付かない思いでいっぱいでした。 私は鎮まらない心を抱え、伊勢、熊野、大和や近江を旅しました。旅の友は『万葉集』と、小林秀雄の『無常といふ事』。『万葉集』をめくり、いにしえびとが生きてきた地を巡り歩くうちに、少しずつ心が癒やされていきました。 敗れしは彼の日にあらず。わがいのち生き終るまで敗れゆくなり その後、國學院で教鞭をとっておられた折口信夫先生の短歌結社「鳥船社」に入社。歌三昧の生活が始まるとともに、先生の口述筆記を少しずつ始めるようになりました。そして22歳から折口家に住み込み、先生のお手伝いや身の回りのお世話をすることになったのです。 先生のところには以前、私にとっては兄弟子でもあり、國學院での先生でもあった春洋(はるみ)さんという方がおられました。春洋さんは先生の養子になられましたが、硫黄島で戦死された。それからしばらくして、「うちに来ないか」と声をかけていただいたのです。 兄弟子たちからは「あんな怖い先生のところに行ったら大変だぞ」と言われましたが、非常にのびやかに短歌を作ったり、旅行に連れていってくださったり――。先生が宮中にご進講に伺う際もお供させていただいていたので、どのようなアドバイスをなさっているか間近に聞くことができるわけです。 本当にありがたかったし、先生が亡くなるまでの足かけ7年、幸せな時間でした。あの時間があったからこそ、私はこの歳まで歌一筋に生きることができたのだと、感謝の思いでいっぱいです。
◆「調べ」によって心が響き合う 歌の力というのは、たいしたものです。『万葉集』の時代、つまり1500年前の人の思いも、今読んでもすーっと伝わってくるわけですから。 あの時代、天皇から庶民に至るまで、恋をするときも、別れのつらさも、あるいは命をかけて何かをやらなくてはいけないときも、その思いを歌に託したわけです。そして、歌を通して相手の気持ちを察したり、心を通い合わせることもできた。 ちょっと大げさな言い方をすると、五七五七七という短歌の形に心を凝縮するのは、日本人の内的生活を支えてきた伝統だし、すばらしい抒情生活のあり方だと思います。 最近は口語で歌を詠む方も増えているようですね。それも時代の流れでしょうし、短歌を身近に感じ、興味を抱く人が増えるのはいいことだと思います。ただ私は、やはり文語の言葉の調べが歌の強みのひとつだと思っています。 もともと和歌は、朗詠といって声に出して詠んだものです。その際、調べはとても大事なんですね。声で伝えて、声で返してもらう。すると胸から流れ出るような感じで相手に響くわけです。 だから戦争のときも、あるいは運命を託さなければならないような大事な局面でも、歌にし、声に出して、大事なことを伝え合えたのでしょう。 歌というのは、日本人にとって心の大事な部分とつながっているし、抒情的な思いをたった三十一文字で表現できる楽しみでもある。短歌がなかったら、日本文化はよほど違った形になっていただろうと思います。
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