指導者の言いなりサッカーに未来はあるのか?「ミスしたから交代」なんて言語道断。育成年代において重要な子供との向き合い方
サッカーとはつながり合いのスポーツ
どれだけの「なんで?」と向き合うことができるか。前述のシンキビッツとのディスカッションの中でこんな話が出てきたことがある。 「息子の試合でこんなことがあったんだ。そのチームの監督はすごくダイナミックに大きな声でいろんなことを指示したがる人だ。FWでプレーしていた息子は監督から『ボールを受けたらしっかりと収めて、味方に落とすんだ』と言われていた。ある試合で息子は本当にその通りにプレーをしていたよ。だから監督は『悪いプレーではなかった』と見たかもしれないね。でも私からしたらひどいゲームだった。息子は『なんで?』と聞いてきた。 『試合中に相手DFが激しくボールを取りに来るシーンがそんなにあったか? なんのためにボールを味方に落とす必要がある? 素早くターンをしてシュートが打てるシーンがたくさんあった。後ろからのプレッシャーを感じていたのか?』と聞くと、『いや、それはなかった』と答えて、『でも、監督が言うから……』と言う。 『それがミスだ。自分で試合を感じられなければならない。試合の匂いをかぎ取れなければ。相手が周囲にいるかどうかを把握できなければ。マッチプランを持って試合に入るだろう? それはいい。でも何回か同じアクションをしたら相手は対応を変えてくるだろう? レベルが上の相手だったらすぐに止められてしまう。それぞれの状況に適したアクションにチャレンジする。それがサッカーだ』」 指導者はもちろんさまざまなことを考慮してプランを考えるし、選手への指示を送る。その試合だけではわからないことがあるし、将来的なことへの布石として支持や取り組みを考えることだってある。毎回、ことあるごとに保護者や他の指導者から「なんで?」と聞かれたら、たまったものではないだろう。 でも「サッカーとはどんなスポーツか?」「どんな取り組みが子どもたちの成長にとって大切なのか?」という命題に対するアプローチが明らかにズレていると感じたら、ディスカッションは避ける必要はない。試合や大会の結果以上にそこへのアプローチのほうが大切ではないだろうか。例えば背が小さいGKだとゴール上部へシュートを打ったら届かないからと、ロングシュートばかりを狙わせたり、身体能力の差だけで何とかするためにとロングボールばかりを放り込むやり方で、子どもたちはどこまでサッカーの奥深さや仲間と積み重ねるプレーの楽しさを感じることができるだろうか。そうした感覚を育むチャンスがないままで、どうやって生涯にわたってサッカーのかけがえのなさを感じつづけることができるだろうか。 パプストの話が腑に落ちる。 「サッカーとはつながり合いのスポーツだ。ミスをしたらパスをもらえないとか、交代させられるなんて馬鹿げている。前向きな取り組みをしてのミスならどんどんチャレンジさせるべきだ。逆だよ。どんどんパスを送ってあげればいい。ミスをした子もミスをしたことを認めて、それを取り戻すために頑張ればいい。何度もチャレンジしていいのがサッカーだし、それをチームで支えるのがサッカーじゃないか」 <了>
文=中野吉之伴