アスリートが「感動を与えたい」という違和感──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと #ニュースその後
「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました」 「感動」は送り手の創造力と受け手の感受性があって初めて生まれるもの。それなのにスポーツの力という錦の御旗の下、「感動」が氾濫している──。フィギュアという勝負論の枠に収まらない、多様な評価軸や価値観も共存するアーティスティックスポーツの担い手ならではの視座といえるかもしれない。 加えて、町田さんがもう一つ危惧することがある。それはアスリートに「感動を与えたい」と言わせるような世の中の空気だという。それを如実に感じたのが、スポーツが“不要不急”といわれたコロナ禍だった、と町田さんは語る。 「コロナ禍においては残念ながら、アートやスポーツが『不要不急なもの』としてくくられる中で、アスリートも自らの存在意義、あるいはスポーツの価値といったことを、すごく考えたと思います。そういう空気に触れると、アスリートも競技だけでなく、何かプラスアルファを社会に還元しなければならないのではないかと考えるのは当然かもしれません。自分のパフォーマンスで経済波及効果をもたらさなければいけない、会場や日本を一つにしなければいけないと、責任を感じてしまうのは無理もないでしょう」
アスリートにいま伝えたいこと
「『スポーツの力』や『感動を与える』という言葉には、時として社会をも動かす大きな力が宿ります。しかし、そもそもスポーツは、たとえ経済発展や平和の創造や感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない『文化』なのです。ですから、アスリートとして誇りを持つべきです。アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしていると私は思います」 スポーツ文化の一端を担ってきた者としての自負と、アスリートへのリスペクトがにじむ言葉だ。 この夏、パリに100年ぶりの五輪が戻る。最近はメンタルヘルスの問題を告白したり、LGBTQなどの多様性を自ら発信するアスリートも増えている。五輪などのスポーツイベントも地球温暖化や脱炭素を意識した運営が求められる時代になり、Z世代のアスリートたちはこうした問題にも敏感だ。アスリートの言葉に、今まで以上に注目が集まっていると町田さんは感じている。 「これからの時代を担うアスリートは、スポーツのメディアバリューをしっかりと自覚したうえで、いかに自分の言葉で語ることができるかどうかが、大事だと思います。『スポーツで感動を与えたい』というような安易な気遣い発言は一切いりません。もちろん、私を含めて、スポーツを観る側、語る側の人たちも、アスリートからそのような言葉を引き出そうとすることを自制する必要があるでしょう。パリ五輪ではいつも以上にアスリートの発言に注目が集まることと思います。そのとき、カメラを向けられたアスリートが自らの意思で、自らの考えや心情を語ってくれることを期待しています」
------------------------------- 町田樹(まちだ・たつき) 1990年3月9日生まれ。現在、国学院大学人間開発学部准教授。スポーツ解説者、振付家。元フィギュアスケート選手。2014年のソチ冬季五輪で5位、世界選手権で銀メダルを獲得。著書『若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学』(山と溪谷社)は、2022年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した。