《ブラジル》記者コラム=第1アリアンサが一世紀の節目=弓場農場健在、記念石碑を序幕
原始林の真っ只中に開拓小屋を築いた北原夫妻
アリアンサ移住地史編纂委員会編『アリアンサ移住地創設四十五年』(1970年、www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/45.pdf)等によれば、ここは画期的な新天地だった。それまでは、平野植民地のようなすでに移住した人が独立農になるために入植したり、桂太郎首相の後援を得て渋澤栄一を創立委員長として伯剌西爾拓殖会社が設立されて始まった桂植民地のように日本の資本で作られた。 このアリアンサは、長野県が旗振り役になり、県民の海外移住を促進するために設立された「信濃海外協会」が民間主導で建設を進めたからだ。1922年、日本力行会の永田稠(長野県出身)とブラジルから一時帰国中の輪湖俊午郎(長野県出身)が尽力し、当時の長野県知事や同県出身の貴族院議員、国会議員らを動かしてこの計画は始まった。 1924年5月、同協会はノロエステ鉄道沿線ルッサンビラ駅附近に5525haの土地を選定。同年10月に日本から派遣された永田が購入契約を締結し、11月20日に大工や数人を引連れて同駅から37キロも離れた原始林の真っ只中に開拓小屋を築いて北原地価造夫妻(長野県出身)が露営を始めた。その日が入植記念日となっている。その北原夫妻が最後に住んでいた家は現在、弓場農場内に移設されて史料館になっていて見学できる。 日本で入植地が売りに出されてすべて売り切れ、翌1925年6月から政府の渡航費補助を受けて日本と北米からの入植が開始された。
大正デモクラシー期らしい特異な人物続々
当時の時代背景としては、1923年9月の関東大震災の影響が大きい。国内で生活苦に陥った人々は海外に活路を求め、出移住圧力が高まった。しかも翌1924年7月1日、それまで最大の日本移民の送り出し先であった米国では排日移民法が施行され、門戸を閉ざした。困った日本政府はブラジルに狙いを定め、1924年から大震災罹災者の南米移住奨励の趣旨で、渡航費全額補助の予算を国会で通し、国策移民時代が到来した。 北米では日本移民への差別や圧力が強まった時期であり、そちらを諦めて南米に転住する先としてアリアンサは選ばれた。そのタイミングで建設が始まったため、多様な人々が目指すようになった。 それまでは日本で食い詰めた人なども多かったが、アリアンサには予め日本で土地を購入してくる財力がある人が入植したので、ある程度の資産を有し、教育程度の高い人が多かった。天体望遠鏡、ピアノや多数の蔵書を持ち込んだ人がいたといわれ、日本移民のなかでは異色の存在だった。 高浜虚子の愛弟子で「ブラジル俳句の父」佐藤念腹(謙二郎)は1927年に、東京帝大工科を卒業した橋梁技師で俳人の木村貫一朗(圭石)も1926年に、短歌界ではアララギ派の島木赤彦に師事した岩波菊治も同年に入植し、この3人が中心になって当地最初の文芸雑誌『おかぼ』をここで創刊した。戦後の日系文学をけん引した武本由夫も1930年に同地に入植した。 1928年に入植した与謝野素は詩人・与謝野鉄幹の甥であり、農業技師として活躍した。その他、台湾総督府の官吏をした移殖民研究家の渋谷慎吾(東京帝大法科卒)も1928年に入植、民本主義の提唱者として有名な東京帝大法科の吉野作造の姪・吉野友子も女子師範学校を卒業して1928年にアリアンサに入るなど、大正デモクラシー期らしい特異な人物が多々ここに入った。 先輩移民からは「銀座をブラブラ散策するような文化的生活をしていたインテリたちが原始林開拓に憧れて移住してきた」とみられ「銀ブラ移民」と揶揄された。 この成功を受け、信濃海外協会は1926年と1927年にアリアンサ隣接地を追加購入して、鳥取県海外協会に薦めて第2アリアンサ、富山県海外移民協会に第3アリアンサ、熊本県海外協会にヴィラ・ノーバの建設を進めた。この4年間余りで1千人以上の日本人がこの地に住み着いた。