「俺は勝負師じゃない…」天才棋士・中原誠に敗れた“元天才少年”が賭博で多額の借金も「電話代だけは払っておくものだね」と語ったワケ
昭和の将棋界には個性派・無頼派の棋士が数多かった。その中で51年という太く短い生涯を生きた“棋士になった天才少年”について、田丸昇九段が見た素顔を紹介する。〈全3回/文中敬称略・棋士の肩書は当時〉 【写真】「消えた天才少年棋士」51年の生涯や「か、かわいい…」パジャマ姿の藤井くん6歳、羽生さん畠田さん25歳“美しい和服結婚式”など棋士レア写真を見る 芹沢博文九段の異色の棋士人生をたどるシリーズの「多芸編」。弟弟子の中原誠七段とA級昇級を争ったB級1組順位戦の最終戦、観戦記やエッセーで文筆家として活躍、将棋番組で名調子の解説、バラエティー番組や映画に出演したタレント活動、私こと田丸の奨励会入会試験での妙な縁、などのエピソードについて紹介しよう。
学生服で正座して対局したので合格だ
私こと田丸は14歳だった1965年1月、奨励会入会試験を6級で受けた。当時の規定は、奨励会員と指して3勝3敗で合格だった。しかしアマ二段程度の棋力だったから、1日目は2連敗した。当日の夕方、師匠の佐瀬勇次七段に誘われて新宿の釜飯店に行った。奨励会幹事の芹沢博文八段も同行した。私は釜飯を食べ、師匠と芹沢は酒を飲んだ。2人は雑談するばかりで試験について触れなかった。芹沢は奨励会時代の奔放な思い出や文学について語り、私に「君はどんな本を読むのか」と振ったりした。やがて芹沢は少しばかり威儀を正すと、こう言ってくれた。 「よろしい。君は学生服を着てきちんと正座して対局したので合格にする」 後で知ったことだが、師匠と芹沢の間では「うちの弟子を何とか頼むよ」「佐瀬さんには麻雀で稼がせてもらっているからいいでしょ」といった密約があり、最初から合格が決まっていたのだ。昔の将棋界は鷹揚で、そうした事例はあったという。 私はいわば奨励会の「裏口入会」で、棋士への一歩を踏み出した。65年4月に交代した別の幹事は厳しく処置し、私のような例を認めなかった。運が良かったと思うと同時に、芹沢との妙な縁に感じ入った。
「芹沢さんのためにも」「中原をぶちのめしてやる」
芹沢は1962年度のA級順位戦でB級1組に降級した。その後、B級1組で昇級争いに加わることはなかった。69年度には最終戦を8勝4敗で迎えて、昇級の可能性が25%の確率でめぐってきた。 2人の昇級枠のうち、11勝1敗の内藤國雄八段はA級昇級がすでに決まっていた。残り1枠の候補者は、9勝3敗の大野源一八段と中原誠七段、8勝4敗の芹沢八段。大野は米長邦雄七段と大阪で、東京では兄弟弟子の芹沢と中原が対戦した。 大野が勝てば58歳で5期ぶりにA級に復帰し、大野が負けた場合に芹沢と中原の勝者がA級に昇級する状況となった。 最終戦の3月13日の前日、米長は以前から慕っていた芹沢と会った。勝負に恬淡な芹沢は「ヨネ、目の前の相手を幸せにしてやれ」と言って、大野の昇級を暗に望む口ぶりだった。しかし米長はこう激励した。 「芹沢さんのためにも、明日は大阪で必ず勝ちます。それを信じて戦ってください」 これを聞いた芹沢は「ようし、中原をぶちのめしてやる!」と語気を強めた。
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