「俺は勝負師じゃない…」天才棋士・中原誠に敗れた“元天才少年”が賭博で多額の借金も「電話代だけは払っておくものだね」と語ったワケ
俺は勝負師に向いていない…中原は何も変わらなかった
大野-米長戦は大野がずっと優勢だったが、米長の懸命な粘りによって終盤で大野が寄せを誤り、米長が逆転勝ちした。米長は後年に「相手の大事な一番こそ全力で戦え」と提唱した。世にいう「米長哲学」で、その原点となったのが大野との対局だった。 東京の芹沢-中原戦は、終盤まで激闘が繰り広げられ、芹沢が決め手を逃したことで中原が逆転勝ちした。 当時は現代のようにネット中継はないし、ファクスで棋譜を確認できなかった。しかし芹沢は独特の勘で、米長の勝利を察知したようだ。終局直後に「おめでとう。これでお前はA級八段だ」と、中原を祝福した。まもなく関西本部への再三の電話で、米長の勝利が判明した。 失意の芹沢は、観戦していた若手棋士たちを誘って飲みに行き、朝の8時頃に帰宅した。和子夫人に結果を聞かれ「負けたよ。中原が八段に昇段だ」と答えた際の「あら、良かったわね。お祝いに何をあげようかしら」との言葉に救われたという。 芹沢は後日に米長と会ったとき、こう率直に語っている。 「俺は勝負師に向いていない……。大阪でヨネが勝ったと思ったら、それまで無心に指していたのに、指し手が急に乱れてしまった。中原は鈍だから何も変わらなかった。その違いで負けた」 なお芹沢は自ら活字中毒と言うほどの読書家で、『文藝春秋』『週刊新潮』などの雑誌記事は必ず読んでいた。尊敬する文筆家は山本夏彦、渡部昇一、好きな作家は藤沢周平、西村寿行だという。洒脱な筆致のエッセーを、一般誌に書いて好評だった。ある将棋雑誌で連載した表題は「のむ打つ書く」。 プロ公式戦の観戦記もよく書いた。筆名の「鴨」は、新選組の幹部の芹沢鴨を連想する。実際には鎌倉時代の随筆『方丈記』を著した鴨長明の一字を取ったという。長明のような名文を書いてみたい、という願望があった。
ダジャレと専門的解説の名調子で人気だった
芹沢は将棋番組で解説をよく務めており、そこでも“言葉の才能”を発揮していた。 1973年の棋聖戦で米長邦雄棋聖に内藤國雄八段が挑戦したときは、両者の名前をもじって「クニオあげての戦い」と形容した。「ドンドンはイギリスの都、シアトル(飛車取る)はアメリカの港」と、現在の豊川孝弘七段のようなダジャレも飛ばした。そんな軽い口ぶりから一転して、専門的な解説でびしっと決めるのが名調子だった。将棋を愛好するお天気キャスターの草分けの森田正光は、自身の天気予報の番組で芹沢の解説を参考にしたという。 芹沢の軽妙な口調は、やがてメディアに注目された。 76年、関西のテレビ局が『日曜天国』というトーク番組を立ち上げ、芹沢に司会を依頼した。ゲスト出演者が独断と偏見で、世の中の問題を斬りまくる内容だった。芹沢は当初、芸達者の面々に食われてぎこちなかったが、次第に持ち味を発揮した。詰将棋コーナーを作り、弟分の若手棋士を出演させた。
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