戦後77年でも終わらない不発弾処理 近年の年間処理件数は1000件台 #戦争の記憶
大阪府吹田市南吹田で7月24日、太平洋戦争時に米軍が投下したと見られる不発弾の処理が行われました。当日は住民約2000人が避難し、付近を走る鉄道も一時運休するなど方々に影響が及びましたが、全国的に見ると不発弾の発見自体は珍しいことではありません。太平洋戦争が終わってから今年で77年になりますが、不発弾処理という戦争の後始末はいまだ続いています。
マンション建設現場で発見
7月24日の朝。JR西日本の線路のガードをくぐり抜けて、すぐ右にある小さな坂を登ると、白い大きな土のうをピラミッド状に積み上げた構造物が目に入ってきました。不発弾の周りに設けられた防護壁です。吹田市によると、高さは6メートル。すぐ近くには、マンションや住宅が立ち並んでいます。 防護壁が設置されているのは、マンションの建設予定現場です。市によると、4月27日午後2時40分ごろ、工事の作業員が掘削中にこの不発弾を発見。長さ1.8メートルで直径60センチ、爆弾の頭部(弾頭)と底部(弾底)の2か所に起爆装置である信管を備えた米国製の1トン爆弾でした。 太平洋戦争中、市では合計11回の空襲があったとされています。市によると、この1トン爆弾がいつ落とされたものかは不明とのことですが、11回のうち、1945(昭和20)年6月15日に不発弾発見現場のある南吹田が空襲被害に遭っていますので、もしかするとこの空襲の時に落とされた爆弾かもしれません。
発見現場から半径300メートルを避難対象区域に
不発弾が見つかった後、市は後藤圭二市長を本部長とする不発弾処理対策本部を設置し、陸上自衛隊など関係機関と不発弾処理に向けた調整作業を開始しました。 また、不発弾発見現場からおおむね半径300メートルの範囲を避難対象区域に設定。区域内に住む約950世帯・2000人には、7月24日午前10時から不発弾の撤去が完了するまで間、区域外に退避するよう事前に告知し、処理日当日を迎えました。 午前9時45分ごろ、市の消防車が住民に避難を求めるアナウンスを流しながら避難対象区域内を走り始めます。不発弾発見場所に隣接するマンションから出てきた中年男性にこれからどこに避難するのかをたずねると、「これからドライブに出ようかと思ってます」と教えてくれました。 避難対象区域内は立入禁止となり、同区域の出入り口となる道路を警官らが封鎖。通りかかかった車や人が区域内に入らないよう誘導していました。