ファットマンと似た形 模擬原爆パンプキンの爆風を受けた大阪の寺
パンプキン 大阪に落とされた模擬原爆 THE PAGE大阪、エキスプレス
70年前の1945年8月9日午前11時2分、長崎県長崎市にプルトニウム原子爆弾「ファットマン」が落とされ、約14万8千人以上が死傷した。この恐ろしい原子爆弾を落とす前後、米軍は国内49か所に、このファットマンと同じ形状をした模擬原爆「パンプキン」を投下。全国で死者400人、負傷者1200人を出した。この49か所のうち1発は、大阪市東住吉区田辺に落とされていた。爆心地周辺は、現在は阪神高速や地下鉄の駅ができるなど光景はずいぶん変わったが、その時と変わらぬ姿を残した寺があった。その寺は爆風でかたむいたが、現在もその時のままの形状で残り、当時爆心地の近くにいた元教師の女性が、同寺で当時の様子を語っている。
すさまじい爆風を受け、そのままの状態で残る寺
大阪市東住吉区田辺の「恩楽寺」は、田辺に落とされた模擬原爆爆心地から約150メートル南西に位置する。当時は現在のように住宅が建ち並んではいなかったが、爆発とともにすさまじい爆風を受けたという。 それにより、同寺は柱がかたむき、屋根なども崩れる被害に遭った。乙部正信住職は戦後生まれのためこの事実を見ていたわけではないが、当時住職をしていた父が、本堂の各所を修復していたのは記憶にあるという。「相当な爆風だったと聞いています。これだけの建物が傾くわけですから」 恩楽寺は現在、模擬原爆のことを学習しに来る小学生に対する講演の場、そして、数少ない模擬原爆による被災の状態で残っている建物のため、その衝撃を伝える場にもなっている。
当時、恩楽寺近くの工場にいた女性が語るすさまじさ
当時、同寺に近い海軍士官のボタンを作る工場にいた龍野繁子さんも、その時の衝撃を覚えている。国民学校の2年目教師として、同工場へ学徒動員で生徒20人を引率していた。 だが、工場には材料がなく、龍野さんは工場長から「別の部屋で授業でもしていてください」と言われ、部屋を移り、授業の用意をしていた際、隣接する部屋から「バリバリ」「ドスン」という衝撃音が聞こえた。見れば、大きな石が屋根と2階、1階の床を突き破り落ちてきた。 後にそれが、爆心地となった料亭「金剛荘」の庭石と分かった。「もし、まだその部屋にいたら」と龍野さんは今でも恐ろしいという。 自宅も爆心地から遠くない場所だったため、学校が終わって帰宅すると、母と姉が涙を流していた。「トシちゃんが爆弾で死んだ」。姉の親友のトシちゃんは、爆心地となった場所近くに住んでいた。実はその日の朝、龍野さんは出勤する際、玄関先に来ていたトシちゃんと挨拶を交わしていた。 「姉が病気やったんで、トシちゃんは、どこかから入手困難な薬を手に入れて姉に持ってきてくれたんです。わたしにも『いってらっしゃい』と言ってくれて。あれが最後の別れになるなんて」。トシちゃんは、空襲警報が鳴ったと同時に、町内の隣組の長ということですぐに自宅に戻っていったという。そして、爆弾の被害に遭った。 「母と姉が、背中にガラスがいっぱい刺さって死んでいたトシちゃんのガラス片を抜いたそうです。あんなにきれいな肌をしていたのに。あの時、帰るのを止めておけばよかったと悔やんでいました」と龍野さんは当時を振り返る。