B29、防空壕、食料難……東海林のり子さんの戦争体験、兵士を励ました「歌」 #戦争の記憶
「現場の東海林です!」――切れのいいこの決めゼリフを覚えている人は、どれくらいいるだろうか。事件の発生とともに現場へ駆けつけ、リポートをする。テレビのワイドショー番組でその姿を見ない日はなかった。1934年生まれの88歳。リアルの戦争を体験し、語れる最後の世代だろう。米寿となったいまも、ロック好きの“ロッキンママ”として知られる彼女に、77年前の夏の記憶を尋ねた。(文中敬称略/取材・文:春山陽一、鈴木毅/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
いまも思い出す戦時中の母の姿
のり子は旧浦和市(現・さいたま市)の出身で、旧姓は青羽。実家は質店を経営し、旧中山道近くにあった。1941年12月、太平洋戦争が始まると北浦和に転居した。のり子が、ちょうど小学校に入ったころだ。 四女として生まれ、父母はもちろん、3人の姉たちの愛情も注がれてのびのびと育った。小さいころから、歌の上手な少女として知られていた。普段はレコードを流す学校の運動会で、ピアノ伴奏で独唱したこともある。 ある日、そんな屈託のない「少女歌手」に思わぬ方向から声がかかった。 「戦争が始まった翌年(1942年)で小学2年生だったと思いますが、戦地の兵隊さん向けに歌を送るので、その歌をうたってほしいと声がかかったんです。先生からNHKに行ってこいって言われて、『お猿のかごや』などの童謡を何曲か吹き込みました。家では母や姉の前でミカン箱の上に立たされて練習しましたね」 歌手気取りで気立てのいい少女のり子は、自分の歌が戦地にどう届くだろうかなどとは、これっぽっちも考えていなかった。
戦時中の記憶は、恐怖感よりも、ひもじさにまつわる思い出のほうが強い。ある日、のり子はショッキングな光景を目にした。 「みんなで配給品を路上に並べてご近所さんと分けていたんですが、あの人のほうが多い、私のぶんは少ないと激しく言い合っていたのです。ジャガイモの山をめぐって大の大人が口論している。見たくなかったですね」 食べ物にまつわる記憶はまだある。母の千代が、統制品となっていて店では買えないお米を求めてあちこち出歩いていた。のり子ら子どもたちに食べさせたい一心からだ。浦和であっても、農村のある地方であっても、当時はお米を表立っては買うことはできない。だから、密かに農家のところに行って着物と交換してくるのだ。 「ある日、母は、現在の春日部市まで電車で行って帰ってきました。すし詰め状態の電車です。お米は“禁制品”だから手に持つわけにはいきません。母は着物のじゅばんに袋を縫い付けて、その中にお米を入れ、体に巻いて戻ってきたのです」 行きも帰りも緊張続きだった母は、家に着くなりへたり込んだ。「そんな母を見ながらも、私たちはお米が食べられるんだと無邪気に喜んでいました」 家では、軍鶏(しゃも)を飼っていた。卵を産んでいる間は卵を食べる。大きくなったら絞めて食べる。絞めるのは母の役目だった。 こんな記憶もある。「母がサツマイモを刻んで乾燥芋を作っているのに、作るそばから子どもたちはどんどん食べてしまうんです。戦時中はとにかくお腹が空いていて……。食べられそうなものがあると何でも手を伸ばしていました」 幼少のころは何とも思わなかったエピソードの数々。だが、「大人になったときに、私だったらそこまで家族に尽くすことができるだろうかと考えたのですが、これは母には勝てないなあと思ったのです」