大阪大空襲の記憶を記録画集に「生死をかけたわかれ道」
大阪大空襲の記憶を記録画集に「生死をかけた わかれ道」THE PAGE大阪、エキスプレス
「『煙入ってきたぞ』『周りが真っ赤に燃えてるぞー』防空壕の中にそんな大声が響いたのを覚えてますわ」──。1945年3月13日深夜から未明にかけ、大阪の街にB29戦闘爆撃機が飛来。1733トンの焼夷弾(しょういだん)が投下され、13万棟あまりの建物が焼失。死者は約4000人、被災者は約50万人にのぼった。その体験を形に残したいと、大阪市平野区の矢野博さん(77)は今年、記録画集「あの日、あの時 国民学校一年生の記憶(新風書房)」を出版。防空壕にいたが、炎が近づき空襲の中を母と兄と3人で逃げた生々しい記憶を絵で表したという。逃げる途中、矢野少年はみんなと違う方向へ逃げ、母と兄も一緒に来た。それが後に「生死をかけたわかれ道」になるとは、当時は知る由もなかった。そんな矢野さんは語る「あの戦争は今の人には味あわせたくない」と。
防空壕に迫り来る炎、生死をかけたわかれ道
当時、矢野さんは大阪市立浪速国民学校に入学後、滋賀県へ集団疎開していた。翌年の3月に大阪へ戻ったが、その時にこの「大阪大空襲」に遭った。 「防空ずきんを枕元に置いて、いつでも飛び出せるようにしてたんですわ。外がさわがしい、サイレンとかが鳴って『空襲警報』ってわかるんですが。あの日はただならぬ気配で、母親が『これはいかん、普通と違うぞ』と言うてました」と当時を振り返る矢野さん。すぐに近くの防空壕へ避難した。 防空壕の中では、手を合わせ念仏を唱えている年配の人、泣き叫ぶ子供らがいたという。そんな時、入り口のすき間から白いものが入ってきた。「それは煙やったんです。だれかがドアを開けたら、真っ赤で火がすぐ近くまで来てて、『逃げろ』と言われて飛び出した」 矢野少年は、ただ走ったらいいと思ってとにかく走った。そして、わかれ道が出てきた。「その時、僕だけ誰も走ってへんところを走ったんです。母にも『そっちじゃない』と言われたが、僕が走ってるもんやから仕方なく兄とついてきて、ほかの人ら2~3人もいたらしいです」と語る矢野さん。だが、後に、反対側へ逃げた人たちからは、多くの人が犠牲になったと聞いた。これが、生死をかけたわかれ道になったとは。