出生体重4980g。生まれる途中で肩がひっかかり、右腕の神経が切れるトラブルに。すべてを受け入れることは一生難しい【体験談】
小学2年生で障害者手帳を交付され、「自分はほかの子と違う」と自覚
――SUZUさん自身が障害を自覚したのはいつごろですか? SUZU 自分に障害があると自覚したのは小学2年生で初めて障害者手帳をもらったときです。それまでは幼かったから、具体的にどれくらいのまひが残るのかわかりませんでした。小学2年生のとき、ようやく障害の等級が確定したんです。 障害者手帳をもらったとき、学校で先生がみんなの前で「SUZUさんは障害者手帳を受給されました。でも、以前と変わらず仲よくしてください」と発表したんです。 もちろん、先生は右手が使えない私に配慮してくれたんだと思います。でも、それが裏目に出てしまいました。小学2年生の子どもたちは容赦がなくて「SUZUは障害者だ」と、はやし立ててきました。そのときに「自分はほかの人とは違うんだ」とショックを受けました。 ――それまでは、とくに不便を感じなかったのでしょうか? SUZU そうです。振り返ってみると、母や先生方が気配りしてくれていたんです。たとえば、洋服のボタンを1人では留められなかったから、ボタンのない服を選んでくれていました。髪の毛も毎日母が洗ってくれて、朝もきれいに結んでくれていたから気になりませんでした。 学校でも、掃除の時間はぞうきんがけができず、机も動かせません。私はいつもほうきで掃く係だったんです。体育の時間も基本的に見学でした。幼稚園のころは体が小さく軽いから自由に動けて跳び箱もできました。でも、成長してくると体も大きくなります。運動をしたときに、左手だけでは体を支えられないおそれがあります。万が一のけがなどで、わずかにつながっている神経が切れるおそれがあると医師に言われました。だから、体育の時間も休んでいたんです。 私自身は活発で体を動かすのが大好きなタイプだったため、好きなことができないもどかしさがありました。
中学時代にできた友だちからも、仲間はずれに
――小学校も中学校も通常学級だったのですか? SUZU はい。ずっと通常学級でした。私が中学生になった途中で、4~5校くらいの中学校が1校に合併したんです。それで、一気に同級生が増えて1学年7クラスくらいになりました。 小学校のときはいじめられていたけれど、中学生になって同級生が増えたおかげで、友だちがたくさんできたんです。そのころはすごく楽しく過ごしていました。 でも、やっぱり私が掃除や体育をしないのが気になった生徒がいたようで、先生に確認したらしいんです。そうしたら、先生がまた全員の前で「SUZUさんは右腕に障害があります」と話をしたんです。すると、翌日から仲よくしていた子たちに無視されるようになってしまいました。 ――同級生たちはどんな心境だったのでしょうか。 SUZU 私も学校に行きたくなくなって、あまり通わなくなってしまったんです。先生から「何かありましたか?」と聞かれたから「だれも話してくれなくなったんです」と答えました。 先生が、話をしてくれなくなった子たちから事情を聞いたら「障害者の子と友だちだと思われたくない」とのことでした。小学生のころ、いじめられた経験もあるからショックでした。彼女たちも、ちょうど思春期で、まわりの目も気になる時期だったから、私とどう接したらいいのかわからなかったんだと思います。 もし私自身が障害を受け入れていて「私、右手がまひしているんだ」と明るく言えるタイプだったら、周囲の反応も違ったのかもしれません。でも、右手が思うように動かないのは自分自身でも簡単に受け入れられない事実でした。それで中学2年生くらいからずっと不登校になってしまったんです。中学3年生になって、周囲が本格的に受験勉強を始めるころ、やっと少しずつ学校に行けるようになりました。給食だけ食べて1~2時間くらい勉強したら帰るような生活をしていました。