「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
〈外〉のネットワークに接続されるとき
もちろん、バートルビーの結末は傍から見ると悲惨なものに思えるので、彼をそのまま私たちのロールモデルにするわけには結局いかない。彼はネットワークの切断には成功したが、切断の果てに、それまで未知であった新たなネットワーク(≒外部)と接続する契機を見出すことができなかった。言い換えれば、彼は最期まで内側に閉じこもり続けた結果、〈外部〉へ至る出口を見つけ出すことができなかった。 チリの小説家ホセ・ドノソの短編集『閉ざされた扉』には、ネットワークから退隠する数多くの登場人物が出てくる。たとえば、「散歩」では四歳にならないうちに母を亡くした語り手である私を中心に、父、それと私の世話を焼くために同居する厳格で気位の高い独身女性マティルデ叔母と独身の叔父二人との生活が描かれる。ここにあるのは、私の亡き母を補填するために生成された親族のネットワークである。 だがある日、マティルデ叔母の前に怪我をした白い野良犬が現れると、この親族のネットワークの均衡は徐々に危うくなっていく。この白い犬はネットワークの〈外部〉からやってきた闖入者であり、既存のネットワークを脅かし、撹乱させる。屋敷から犬を追い出そうとする叔父たちに対して、マティルデ叔母は完治させるまで犬を置いておくと譲らない。そして、マティルデ叔母と白い犬とが排他的な絆で繋がったとき(そこに余人が入る余地はない)、言い換えれば、彼女が〈外〉のネットワークと接続されたとき、内側に存在していた既存のネットワークの秩序は決して小さくない変動を被るか、もしくは最悪の場合は崩壊するしかないのである。 徐々にマティルデ叔母は同居人との交流を絶っていき、黙って犬と夜の散歩へ出ていく生活を繰り返すようになる。そして、終局は避けようもなく唐突に訪れる。 「ある時、遅い時間に帰宅した叔母が、上機嫌で甘いメロディーを口ずさんでいるような気がしたので、こっそりドアを開けて様子を窺ってみたことがある。両腕に犬を抱いて私の寝室の前を通り過ぎる叔母は、顔が少し汚れており、スカートの一部が破れていたにもかかわらず、驚くほど若く完璧な表情を見せつけていた。自分の力で何でもできる、これから楽しい人生が待っている、そんな顔だった。私は恐怖に震えながらベッドに入り、もうこれですべてが終わったことを覚悟した。 杞憂ではなかった。それから少し経った頃のある晩、夕食後にマティルデ叔母は犬とともに散歩に出掛け、二度と戻らなかった。」(ホセ・ドノソ『閉ざされた扉 (フィクションのエル・ドラード)』寺尾隆吉訳、水声社、二〇二三、二二七頁) 彼女と一匹の白い犬が死出の旅に出たのか、それともどこか私たちには伺い知れない世界で新たな生活を享受しているのか、そのことを知るすべはない。ただ、<外>からのネットワーク(ここでは白い犬)との接続が、所与のネットワークの秩序を壊乱し、彼女の生を未知の〈外〉へと連れ出してやったのは確かだ。そのとき、彼女の生はもはや、使用や目的や使命や仕事といった、彼女を雁字搦めにする諸々のネットワークには還元できない、未知の相貌に包まれているだろう。 (次回に続く) 参考文献 「米津玄師 - LOST CORNER Radio」https://www.youtube.com/watch?v=fx--topb0so グレアム・ハーマン『四方対象――オブジェクト指向存在論入門』岡嶋隆佑監訳、人文書院、二〇一七 三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (集英社新書)、集英社、二〇二四 ラッセル・A・ポルドラック『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか 』児島修訳、みすず書房、二〇二三 ジョルジョ・アガンベン『バートルビー〔新装版〕』高桑和巳訳、月曜社、二〇二三 岡田 温司『アガンベン読解』平凡社、二〇一一 エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』木村榮一訳、新潮社、二〇〇八 ホセ・ドノソ『閉ざされた扉 (フィクションのエル・ドラード)』寺尾隆吉訳、水声社、二〇二三 木澤佐登志氏による連載「生産性という病」 第1回「もううんざり! 競争社会から降り始めた現代のディオゲネスたち」 第2回「まるで奴隷…惨めな労働に道徳的な価値があるとされたのはなぜ?」 第3回「時間が足りない! 加速するタイパ社会にユートピアはあるか?」 第4回「怠惰であるのも困難だ! 「疲労社会」で自分を殺さずに生きるには?」 はこちらから!
木澤 佐登志(文筆家)