「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
資本主義のネットワーク
資本主義のネットワークは私たちを雁字搦めにしながら「生産」と「消費」へと駆り立てていく。それと同時に、私たちは資本主義の内部に張り巡らされたアルゴリズムのネットワークの中で倦み疲れている。レコメンド・アルゴリズムはユーザーの過去の選択を元にコンテンツをレコメンドしてくる。そこにあるのは結局「既知」の(ちょっとした差異を伴った)反復でしかなく、「未知」との偶然的な出会い――新たなネットワークとのセレンディピティ的な接続は予め排除されている。 そうやって人々は退屈していく。あらゆるネットワークとゆるやかに、あるいは依存するほど緊密に接続しながら、しかしそれ以外の未知のネットワークのあり方を想像することさえできずに。 たとえば労働。私たちは労働というネットワークとあまりに緊密に相関している。労働の存在しない生活を思い描くことさえできないほどに。現代にあっては、労働は個人のアイデンティティすら侵食し、働くことを通してしか自己実現を果たすことができない仕事人間を大量に生み出してきた。そうした社会では、たとえ鬱病になったとしても、「鬱病は甘えではないが「鬱病で働けない」は甘え」といった言説が大手を振ってまかり通るだろう(実際こうした言説をインターネットの匿名掲示板でしばしば見てきた)。 「生産性」というイデオロギーこそは、私たちを囚えているもっとも強固なネットワークかもしれない。抗鬱剤の氾濫は資本主義の延命措置でしかなく、人々を労働に駆り立てる威勢の良い言辞の蔓延とは裏腹にその実、資本主義というシステムが機能不全に陥っていることを暴き出している。 こうした状況に対して、たとえば三宅が提唱するように、読書という「ノイズ込みの知」を生活に取り入れることで、言い換えればネットワークを撹乱させるノイズを混入することで、固定化したネットワークを動的に組み替える可能性を開く戦略が有効となるかもしれない。 しかし、私たちは労働というネットワークに蜘蛛の巣のように常にすでに囚われているがゆえに、読書という営為、その豊穣なネットワークに対して予め閉ざされているのであった。それではどうすればいいのか。