「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
「~しないことができる」という「非の潜勢力」
バートルビーをより深く理解するための補助線として、哲学者のジョルジョ・アガンベンによる議論を参照してみたい。アガンベンがバートルビー論の中で用いるキーワードに「潜勢力(ポテンツァ)」がある。前提として、アガンベンはアリストテレスに倣って潜勢力を二つに区別している。美術史家の岡田温司はこの辺りについて明快に解説しているので、それに拠ると、ひとつは、たとえば子どもは無限の可能性を秘めているといった意味での潜勢力、つまり、「~できるようになる」という意味での潜勢力がまずある。もうひとつは、すでに「~できる」能力を習得しているのだが、それを現実化しないでおくことができるという意味での潜勢力、つまり「~しないことができる」という意味での潜勢力がある(たとえば、ジョン・ケージの『4分33秒』は「(弾くことができるが)あえて弾かないことができる」という潜勢力に貫かれている)。バートルビーはこの場合、もちろん後者の「~しないことができる」という意味での潜勢力と親和性が高い。アリストテレス哲学では通常、現勢力(エネルゲイア)へと移行できる潜勢力として、つまり「~できる」という意味での潜勢力として解されることが多いのだが、アガンベンは、そしてバートルビーは、逆に「~しないことができる」という潜勢力、現勢力へ移行しない純粋な潜勢力、すなわち「非の潜勢力」を突き詰めようとする。アガンベンは言う。「書くことをやめた筆生である彼は、あらゆる創造が生じるもととなる無をかたどる極端な形象であり、また、純粋かつ絶対的な潜勢力であるこの無を最も苛烈に要求するものでもある」。 私たちは仕事と強固にネットワーク的に結びつくことで、仕事こそが私の「本質」を映し出す鏡であると何となく考えているかもしれない。しかし、決して現勢力に移行しない潜勢力、すなわち「非の潜勢力」に着目するアガンベンからすれば、人間に与えられた固有の使命としての仕事などそもそも存在しない、ということになる。現にアガンベンは著書『思考の潜勢力』の中で、「人間には人間の本質を定義できるような「現勢力(エネルゲイア)」もないということになる。つまり人間は、いかなる同一性や働きによっても尽くされることのない純粋な潜勢力の存在である」と明言している。ここでアガンベンは、潜勢力との関係において「無為」を捉え直している、ともいえる。言い換えれば、アガンベンにあっては、「無為」は「~しないことができる」という「非の潜勢力」と密接に結びついている。人間は、どんな固有の仕事や目的や使用や使命や同一性によっても汲み尽くすことのできない剰余、純粋な潜勢力を有している。 ここに至って、私たちは冒頭のハーマンによる「壊れ」が開示するモノの「実在」の議論に立ち返ることができる。ハーマンのいう使用や目的のネットワークに還元できない、むしろそこから切り離されたところに開示される「未知」の「実在」、それこそはアガンベンのいう決して現勢力に移行しない純粋な潜勢力、「非の潜勢力」に他ならないのではないか。バートルビーは次々とネットワークから自らを切断していくことによって、自らをさながらどこにも届かないデッドレターと化すことで、自身を純粋な潜勢力として読者に向けて開示させたのだ。 もちろん、以上の議論は、前回に論じた〈能動的な無為〉とも位相が近い。『バートルビーと仲間たち』の著者エンリーケ・ビラ=マタスは、「われわれの知っているバートルビー族というのは、心の奥深いところで世界を否定している人間のことである」と述べている。バートルビーは、ニューヨークのウォール街における、ビジネスや事務作業が象徴する反復的で退屈な日常に対して「否」を突きつける。ネットワークの連関から逸脱する者は皆どこか〈否定〉の能力を持っているように思われる。〈能動的な無為〉とは、既存のネットワークのあり方を〈否定〉し、そこから身を引き剥がそうとする。たとえば、私は仕事に「行かないことができる」という「非の潜勢力」によって。