「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
アテンション中毒
ネットワークは人を一定の場所/地位/属性に繋ぎ止めておくだけではない。ある種のネットワークは、人を駆り立て、中毒させる。ギャンブルやドラッグはその最たるものだが、アテンション・エコノミーの台頭以降、そうした依存性のあるネットワークは誰の日常にも組み込まれている。 文芸評論家の三宅香帆は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のなかで、歴史や他作品の文脈・想定していない展開などを含む「ノイズ込みの知」を「ノイズ抜きの知」としての情報に対置させ、前者である「ノイズ込みの知」を得る方法としての読書の復権を説く。三宅は、本が読まれなくなった理由を、現代の労働のあり方に求めている。働いていると仕事以外の文脈、すなわちノイズを取り入れる余裕がなくなるからだ、と。 この議論には説得力があるが、三宅自身が「正直、本を読む時間はあったのです。電車に乗っている時間や、夜寝る前の自由時間、私はSNSやYouTubeをぼうっと眺めていました」「本を開いても、目が自然と閉じてしまう。なんとなく手がスマホのSNSアプリを開いてしまう。夜はいつまでもYouTubeを眺めてしまう」と述懐しているように、事の本質が「労働」だけでないことは明らかだろう。 アテンション・エコノミーにおいては、レコメンド・アルゴリズムが特定のユーザーの報酬系と強く結びつくと予測されたコンテンツや商品をレコメンドし続けることで、ユーザーの報酬系とコンテンツ間のネットワークを再帰的に強化する(オペラント条件付け)。そこでは、ユーザーはみずから主体的に情報やコンテンツを探しに行く必要はない。自分の欲するコンテンツは自動的にレコメンドされてくるので、ユーザーは受動的なまま画面をスワイプしていくだけで良いのだ。かくして、人々の希少なアテンション(注意力)は際限なくプラットフォームに吸い取られていく。まるで中毒したように、私たちはスマホから手を離すことができなくなる。 人間の意思決定や思考プロセスに関して、直感的・自動的なプロセスである「システム1」と、論理的・意識的なプロセスである「システム2」という二つの異なるシステムが存在するという二重過程理論に従えば、アテンション・エコノミーにおけるレコメンド・アルゴリズムは「システム1」と相性が良い。自動的で迅速な処理を行う「システム1」は、趣味嗜好に合致するノイズのない情報やコンテンツに引き寄せられる。反対に、意識的で分析と理性に基づくとされる「システム2」は、ノイズを含むコンテンツ(たとえば書籍)を前にしたときや複雑な問題に取り組む際に作動する。 新たな情報や刺激を得ることを目的とした目標指向行動(欲求)を、アテンション・エコノミーによる再帰的なネットワーク強化は自動的な習慣へ変える。習慣とは特定の刺激や状況によって自動的に引き起こされる行動や思考であり、習慣はそれを生み出すきっかけとなった報酬(たとえばドーパミン)が存在しなくなったとしても持続する。結果、刺激に耐性ができてもクリックし続けてしまう。かくして、とりたてて面白くないどころか何となく退屈であるにもかかわらずYouTubeやショート系動画を延々と見続けてしまう、受動的な依存的ループ構造が生まれる(この点については前回論じた〈受動的な無為〉とも親和性が高い)。