「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
〈外部〉のない「透明な檻」
私たちはネットワークの中に生まれ落ちる。たとえばそれは「母―父―私」というネットワークであり、それは現行社会では「家族」と呼ばれる。この非常に強固なネットワークを中心に、成長していくごとに私たちは様々なネットワークに参入していく。それは「友人」というネットワークを内に含む「学校」というネットワークだったり、「同僚」というネットワークを内に含む「会社」というネットワークだったりする。 さて、私たちが暮らしていくなかで、資本主義という巨大なネットワークは、諸々のネットワークを包摂しながら再帰的にみずからを強固にしていく人工的/制度的ネットワークだといえる。資本主義を包摂するより巨大な人工的/制度的ネットワークは存在しえない。つまり、資本主義には〈外部〉が存在しない。このような事態を、文化批評家のマーク・フィッシャーはフレドリック・ジェイムソンのフレーズを借りて「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」と表現してみせた。 いわゆる「相関主義」批判は、ハーマンもそこに含まれる思弁的実在論に共通するアジェンダだが、フィッシャーの中心概念である「資本主義リアリズム」(現行社会において、資本主義こそが唯一可能な社会/経済システムであるかのように見なされている状況を指す概念)と同様に、外側への回路を閉ざされた特定の「閉塞状況」を問題にしているといえる。つまり、「相関主義」批判にあっては、主観と客観の相関の〈外部〉にある「絶対的な実在」を捉えることができない「透明な檻」の存在を問題視する。フィッシャーも思弁的実在論も共に、すべてを相関のネットワークに閉じ込めることで〈外部〉へのアクセスを閉ざす「透明な檻」からの脱出を志向している点で、共通の問題意識を抱えている。 私たちは「資本」が織りなすネットワークとあまりに緊密に相互接続されているがゆえに、それ以外のネットワーク、言い換えれば、私と資本の相関関係(透明な檻)の〈外部〉へ至るネットワークの形成を想像することさえできない。