「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」
「壊れてちゃいけないんだろうか」、「完膚なきまでに壊れてない人間なんて果たしてこの世にいるのだろうか」……。「生産性」という病に取り憑かれた社会を解剖し、解毒剤を練り上げる、気鋭の著者による連載の第5回は、歌手・米津玄師の語りから、資本主義のネットワークの〈外部〉への接続を志向するある物語へ――。 【写真】道具も壊れると…
「自分は壊れてない」
「壊れてちゃいけないんだろうか」。そんなふうに米津玄師は語る。「LOST CORNER Radio」と題された動画のなかで、新たに発売される彼の6thアルバム『LOST CORNER』収録曲「がらくた」の制作エピソードを米津玄師はそのとき語っていた。 精神的に参っていた友達と話していた際に印象に残った言葉がある、と米津は言う。「自分は壊れてない」。これがその友達の発した言葉だ。その場では曖昧に相槌を打って彼と別れるも、自宅で一人になったとき、「果たして壊れてちゃいけないんだろうか」と、ふと思ったのだという。それに伴って次のような考えにも至る。「完膚なきまでに壊れてない人間なんて果たしてこの世にいるのだろうか」、と。
「壊れ」の不気味な過剰さ
哲学者のグレアム・ハーマンは、ハイデガーの道具分析を参照しながら、「壊れ」が開示する世界を照らし出してみせる。 私たちはふだん道具を使うとき、それを暗黙裡のうちに使用のネットワークの内側に位置づけている。たとえばハンマーは、釘を打つための道具として、ハンマーに打たれるための釘と相互にネットワークが接続されている。同様に、釘という道具は、釘を打ち付けるための板や釘を抜くためのバールといった諸事物とネットワークを形成している。ハンマーはこれらのネットワークに緊密に組み込まれながら、「釘を打つ」という目的のために使用されているわけだ(これは見方を変えれば、ハンマーは使用者に従属させられているともいえる)。このとき、ハンマーという対象は関係性のネットワークや使用による相互作用などに還元されているといえる。ハンマー、それは釘を打つための道具、それ以上でも以下でもない、というわけだ。 しかし、ひとたびハンマーが壊れ、それが本来の(釘を打つという)用途や役割を果たさなくなるや否や、ハンマーは突如ひとつの孤立した異様な対象、「道具」というラベルを剥がされ、「使用」による従属から解放された何か言い得ぬモノ、すなわち「実在」として私たちの眼の前に立ち現れてくる。ある事物が「壊れ」によって期待された通りの振る舞いや機能をやめ、諸物のネットワークから切断されるとき、「既知」の関係や役割からはみ出た「未知」の側面、そのモノ自体に内在する還元不可能な剰余、言い換えれば指し示し得ない不気味な過剰さが唐突に私たちに開示されるのだ。