オーバーコミュニケーション社会が引き起こす人格崩壊 氾濫する「匿名の言論」
オーバーコミュニケーションとは何か
ツーリズムも、エデュケーションも、一種のコミュニケーションであるととらえられるかもしれない。そういう意味でのコミュニケーションは、人類の知的進歩をうながすことであり、過剰となって弊害をもたらすということは、これまでの常識では考えにくかった。 しかし昨今の、SNS上における誹謗中傷、学校のいわゆるイジメ、監視カメラの氾濫と顔認証、AIの発達とその悪用、闇バイトのサイトを使った匿名流動型犯罪などを考えると、単なる「情報過多」という言葉ではとらえられないような、コミュニケーションの過剰による社会的弊害が現れているように思えるのだ。 ここでは、オーバーツーリズムもオーバーエデュケーションも、また過度の都市集中も含めて、オーバーコミュニケーションという現象について考えたい。遠隔地を結ぶ情報技術によって都市集中に歯止めがかかるという見方もあるが、それはものごとの表面しか見ない意見であって、長期的にはコミュニケーションツールの発達はリアルの都市集中を促進するものだ。19世紀以来の人口爆発は、都市人口の爆発であり、都市集中は交通技術と情報技術の発達と並行する。これまでにも述べてきた加速的な都市化現象である。 そして今、人類の社会全体がオーバーコミュニケーションという都市化の過剰に陥っているのではないか。
テレビ・パソコン・スマホが人間を衰退させる?
東京の地下鉄などでは、スマホを見ながら列車を乗り降りする人を多く見かける。彼らは周囲に迷惑をかけていることに気づかない、あるいは気づかないふりをしている。 かつて大宅壮一はテレビの普及を「一億総白痴化」と評した。僕の友人は「テレビでハクチ化、パソコンでオタク化、スマホでサル化」と評する。極端な表現だが一理ある。要するにそういったコミュニケーション手段によって「人格」が微妙に変化しているのだ。 人は社会的動物であり、人間相互のコミュニケーションが文化文明の基本である。文字というものが成立してから、法律や契約が成文化されることによって、確固たる国家システムが誕生した。1960年代、マーシャル・マクルーハンは、活版印刷の時代からテレビの時代に移ることによる人間の社会的性格の変化をメディア論として展開した。そしてその後、人間の社会では、パソコン、携帯電話、インターネット、スマホ、AIというかたちで、コミュニケーションのツールだけが加速的(爆発的)に発達している。 もちろんこうしたコミュニケーション手段の発達は人類の文明の発達であるが、その過剰は、人類の一人一人を衰退させているのではないか。あるいは、表層的な言葉や映像が氾濫することによって、本当の(魂の)コミュニケーションが難しくなっているのではないか。