「放置していたら数年で大腸がんになっていましたよ」と言われ…作家・平野啓一郎が語った実体験を反映させた短編集
あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、何故、今のこの人生なのか――。 そう回想したことがある人々に微かな光を与える短篇集『富士山』(新潮社)が刊行されました。 作者は平野啓一郎さん。10年ぶりに発表となった短篇集を手掛けた動機や物語に反映させた思考とはどのようなものだったのでしょうか? 刊行前に行われた読書会でのスピーチと質疑応答を紹介します。
平野啓一郎・インタビュー「この人生には、無数の偶然が積み重なっている」
――『富士山』は10年ぶりの短篇集ということですが、どのような位置づけでお書きになったのでしょうか? 自分の中ではこれまでの作品を第1期から第4期まで区分けしていまして、ちょうど2000年を境にアメリカ同時多発テロが起きたり、インターネットの登場でいろいろな事が変わり始めた頃に、これまでの小説の書き方では現実を捉えきれないと感じて、「高瀬川」などの短篇を集中して書いた時期がありました。これを第2期と呼んでおりまして、実験的な作品が多いので読者の好みが分かれるところですが、じつはその後の第3期に向けて重要な役割を果たしているんですね。そして10年前に出した短篇集『透明な迷宮』もまた、第4期の長篇『マチネの終わりに』『ある男』『本心』へとつながっています。そして今、そろそろ第4期も終わって次のシリーズに進む時期と感じていたので、方向性を見定める試みとして短篇をまとめて書きました。ただし今回は実験的になりすぎずに、一作ごとに物語性を楽しめるように工夫したつもりです。 ――その最新短篇集に収録されている「息吹」が本日の読書会の課題なのですが、主人公の齋藤息吹が、かき氷屋が満席だったので「たまたま」入ったマクドナルドで隣の席の客から大腸内視鏡検査の会話を耳にします。それが気になった息吹が検査を受けたところ、家族の平穏な日常が「もう一つの日常」に侵食されていく……という物語です。「たまたま」が強調されている印象ですが、これはどういう着想のきっかけがあったのでしょうか? 僕は1975年生れ、いわゆるロスジェネ世代なので、反・自己責任論者なんですね。金持ちになったのは努力の賜物で、不遇な生活をしているのは本人のせい、という新自由主義的な風潮につねに反発してきました。結局のところ誰の人生も、本人にはどうしようもない偶然の要素に左右されている面が大きいと思うんですよ。そう考えることで、うまくいってない人は自分を貶め過ぎずに済みますし、良い人生を送っている人も「たまたま運が良かった」と自分に謙虚に、他者に寛容になれるのではないかと思うのです。 ――平野さんご自身には、あの時こうだったらという思いはありますか? それはもう、現実のなかで偶然的な経験はたくさんしていて、それこそ僕が大学生のときに「新潮」編集部に『日蝕』を持ち込んで、それでデビューが決まったのも運が良かったと思います。当時の編集長が別の仕事で忙しかったり、新人作家に関心がなかったり、ちょっとした風向き次第で、今ごろ僕はまだ京都のアパートに暮らしてバイトしながら新人賞に応募する生活を続けていたかもしれません。 最近、偶然というものに対する世の中の感受性がどんどん鈍くなっているような気がします。昔のほうが、例えば書店で面白そうな本をみつけるとか、たまたま目にした広告に惹かれてモノを買うとか、社会全体が偶然性に期待していたところがありましたが、今はネットの閲覧履歴から消費傾向をカスタマイズして、偶然性を排除した広告展開が当たり前となっています。それは読者の感覚をも侵食してきていて、小説の中で奇跡的な出会いを果たすと、「そんな韓流ドラマみたいなことがあるはずないでしょう」と鼻白む感覚が強まっているように思います。でも現実の世界では「たまたま」が人生を左右することが往々にして起こっていますよね。実際、僕も齋藤息吹と同じように、友人が大腸内視鏡検査を受けたという話を「たまたま」耳にしたんですよ。 ――それで気になって平野さんも検査を受けたと? 特に深刻に受け止めたわけでもないのですが、まあついでにやっとくか、という気持ちで受けてみたら、結構大きなポリープが見つかって、医者に「放置していたら数年で大腸がんになっていましたよ」と言われ、もう気持ち悪くなっちゃったんですよね。50代初めにがんが見つかった世界の自分の姿が妙に生々しく想像できて、出版社の担当者たちが「平野さん、大腸がんで大変らしいよ」と囁く場面がありありと目に浮かんできて。 ――現実に起きていないのに、細部までリアルな想像ですね。 人間の記憶というのは結構あいまいで、現実よりも頭に強く念じたイメージの方が記憶に強く残ることがあります。ですから「息吹」のラストも、結局、内視鏡検査を受けたのが現実だったのか非現実だったのか、どちらとも読めるように余白を残しました。今日の読書会のように、読み終わった後にみなさんと互いに話すことで、自分とは違う読み方のストーリーがあり得たことを知ることもできますし、最後は読者の個人的な経験が練り込まれることによって完成するような読書があっても良いのではないかと思います。