「放置していたら数年で大腸がんになっていましたよ」と言われ…作家・平野啓一郎が語った実体験を反映させた短編集
(参加者2)私は平野さんの分人主義という考え方に救われた部分があるのですが、この作品の中ではある選択をした/しないことによる「自己存在の揺らぎ」みたいなことが書かれています。なぜ人はアイデンティティとか、自分とは何か、を考えたり悩んだりするのでしょうか? また今後、平野さんがお書きになりたいテーマは? 「もし自分の人生がこうだったら」という想像を、今はとても掻き立てられやすい時代だと思うんですよね。というのも、例えば昔だったらマイナーな外国の街を舞台にした小説を書くときに、ほとんど誰も行ったことがないから好き勝手に想像力で書けました。ところがいまは情報技術の発達によってネットの情報で現実の外国の街の様子がすぐに調べられるので、間違いは指摘されますし、その一方でアフガニスタンに生まれたら、女性は頭髪をヴェールで覆って外出しなければならないといった生活様式まで、遠い国のことでも容易に情報を入手できます。こうした刺激が、メタバースの登場や、主人公が現実世界ではあり得ない能力を獲得する「異世界転生もの」ラノベの流行にも繋がっているように感じますね。人間の中にはいくつかの分人があって、そのひとつがヒロイックに活躍できる世界に、フィクションを通じて入り込みたい、という気持ちはとてもよくわかります。しかし一方で、個人、つまりインディビデュアルが「不可分なもの」という意味の単語から派生しているように、長い歴史の中で、「一人の人間には一つの自我がある」という考え方からなかなか抜け出せずに、あれこれと思い悩むこともあるでしょう。だから僕の場合は、「本当は、自分のことがよくわからない」と堂々と表明することが大事だと思っているんです。好きな食べ物は何ですかとよく聞かれますが、暑い日にラーメンは食べたくないし、接待で三日三晩フレンチが続いたらあっさりした和食が食べたいですよね。いつだって人は環境とか気分とかタイミングで揺れ動いているから、人生で一番好きな音楽アルバムは何と聞かれても、本当に答えようがない。人生最高の曲が明日になればコロッと変わっているかもしれないし、そうした「揺らぎ」をむしろ楽しんでいます。得体の知れない人だと思われそうですが、「そう簡単に分かられてたまるか」という気持ちもあります(笑)。ですから次の第5期には、こういった「刹那的な」分人についても考えていきたいと思っています。 (参加者3)これまでお話しされてきたのは、おもに精神面での分人論のように思うのですが、「身体」についての分人論は今後どのような展開をお考えでしょうか? 非常に鋭いご質問をありがとうございます。僕は個人を分割可能な集合体と捉える考え方として、ディビデュアル(分人)という言葉を提唱しましたが、じつは調べてみると1970年代頃から人類学の分野でディビデュアルという言葉が使われていたんです。しかしこれは身体の断片的な意味の分化という意味合いでの分割可能性であって、僕の場合は精神面での人格的な分割を提唱している。では身体は関係ないかというとまったくそんなことはなくて、アイデンティティにまつわる経験は、どこか痛みの感覚と結びついているのではないか、というのが僕の実感です。「こんな自分じゃなければ良かったのに」という自己嫌悪感とか、それこそ自傷行為とか、身体の痛みが必ず伴います。また逆に、音楽のリズムに合わせて踊ったり、とてつもない美術作品を目のあたりにしたときの歓びもまた、身体的な興奮と切っても切り離せません。僕はこれまでも、例えば『かたちだけの愛』という作品では、美脚の女王と呼ばれた女優が交通事故で左脚を切断しなければならなくなり、彼女の分人とアイデンティティがどのように揺らいでいくのかを描きました。まだ今の段階では具体的なプランを描いているわけではありませんが、おそらく次のシリーズでも、身体との対話の中から新しい物語の可能性がひらけるのではないかと考えております。 (2024年9月29日 赤坂EDITIONにて) [文]平野啓一郎(作家) 1975年、愛知県生まれ。京都大学法学部卒。1999年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」により芥川龍之介賞を受賞。著書に『日蝕・一月物語』、『文明の憂鬱』、『葬送』、『高瀬川』、『滴り落ちる時計たちの波紋』『あなたが、いなかった、あなた』、『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『ドーン』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞)などがある。 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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