坪倉由幸の役者ライフ 俳優業で得られたもの「我が家」に還元
2003年の結成から20年近くになるお笑いトリオ「我が家」でブレークした坪倉由幸だが、近年は俳優としての活躍も広く知られるようになり、ドラマや映画で坪倉を知ったあとに「我が家」を知るという人もいるほどだ。果たしてこれまで演技の仕事にはどう取り組んできたのか? 俳優としての坪倉に聞いた。
「ごく普通に友だちと話す明るい感じの小学生でした」
少年時代は兄の影響でサッカーをしていた。小学校に入ってからすぐ近所のクラブに入ってプレーしていたという。そしてなんと後にJリーガーとなって日本代表選手となる中村俊輔と同じチームにいたとか。 「中村選手は僕が小学6年生のとき選ばれた横浜市選抜で一緒で、6年生ばかりの中に中村選手は5年生で1人だけ選ばれていたんです。小学生の1学年差は体格も技術も差があるものですが中村選手はとくにテクニックがズバ抜けていたんですよ」 その頃坪倉はサッカー以外ではごく普通の小学生だったと振り返る。 「家庭も裕福でもなければ貧乏でもなく。兄弟は男3人いて全員サッカーをやっていました。学校が終わってから住んでいた団地の前の公園で兄弟でボールを蹴りました。あとはごく普通に友だちと話すような明るい感じの小学生でした」
「テレビに出たいっていう気持ちだけあったんです」
「我が家」をやる前に俳優としての仕事をしていた坪倉だが、当初はとくに定まった目標はなかったという。 「ざっくりと、テレビに出たいっていう気持ちだけあったんです。お笑いは好きだったので俳優よりはお笑いをやりたい気持ちはありましたが、今のようにお笑いの養成所がいろいろな事務所にある時代ではなかったし、入った養成所が俳優中心のところだったので初めは俳優志望という形になったんです」 しかしその養成所の卒業公演で喜劇をやったことから本格的にお笑いへ傾倒していく。 「今の相方2人(杉山裕之、谷田部俊)も出ていて、その公演の中でショートコントがいくつかあったんです。そこでボケ役をやらせてもらったときにお客さんが笑ってくれたのを感じて、自分で書いてみてやってみたらどうなのかなって思ったのがきっかけです」 そこから台本を書き始めて3人でネタを披露するようになった。当時はNHKで放送されていたお笑い番組「爆笑オンエアバトル」が全盛で、坪倉はとくにアンタッチャブルの漫才が大好きだったという。 「ちょっとした言葉遊びだとか、今でこそ当たり前ですが、柴田(英嗣)さんのツッコミのフレーズだとか面白いなって。感情的に突っこむところとか全部がすごいなって思うんです。それで自分でも同じようなテーストのものを書いたりもしました」