【宗教を超えて】東大寺別当 橋村公英さん:大仏さまに手を合わせるひととき、怨みを忘れ、他者を理解する
世界中から多くの人々が参拝に訪れる奈良の大仏さま。東大寺別当(住職)の橋村公英さんが約1280年の歴史をひもとき、宗教を超えて大仏に手を合わせることの意義を語る。
国家全体の平穏を祈るための象徴
東大寺は奈良時代に国家の安泰を祈る寺として創建された。聖武天皇(701~756)の発願によって752(天平勝宝4)年に完成した本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、「奈良の大仏さま」として世界的に有名だ。国内外から多くの参拝客でにぎわう観光地としての顔と、修二会(しゅにえ)のような修行の場としての顔を併せ持つ。橋村公英さんは2022年、初代の良弁(ろうべん、689~773)から数えて第224代目の別当に就任した。 「約1280年に及ぶ東大寺の歴史は大仏さまと共にあったと言えます。743(天平15)年に『大仏造立の詔(みことのり)』が聖武天皇によって発せられ、初めに大仏さまは紫香楽(現・滋賀県甲賀市信楽町)で造り始められますが、都が平城京(現・奈良市)に遷都されますと、大仏さまの造像も平城京北東の現在地で再開されました。749年に仏身の鋳造が、『東大寺要録』によると751年に大仏殿(金堂)が完成し、752年には盛大な開眼供養会(くようえ)が営まれました。その後、西塔や東塔、講堂や僧房などが順次造営され、七堂伽藍(がらん)が整備されていったのです」
当時の日本は中国大陸から九州へ持ち込まれた疫病(天然痘)が各地に広がり、未曽有の混乱に陥っていた。735年、737年の大流行で政権の中枢を担う藤原氏をはじめ多くの貴族も命を落とした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、聖武天皇は「私の不徳によってこの災厄が生じた」と自らを責めた。税の減免、米の支給、資金の貸し付け…。応急対策を打ち出した天皇が国家の命運をかけて取り組んだのが大仏造立だった。仏教の力によって平穏な社会を取り戻そうとしたのだ。 「聖武天皇は『一枝の草、一握りの土でも持ち寄って造立に協力したいという人がいれば、共に造ろう』と呼びかけました。苦難を乗り越えるには、国民の心を一つにすることが肝心だと考えたからです。当時の人口のおよそ半数にあたる260万人が10年近くを費やしたこの大事業に関わったと言います。各地に池を掘り、橋を架けるなどの社会事業を行い、厚い信頼を得ていた行基が民衆の力を結束させる役割を担いました。だからこそ大仏さまは国全体の平穏を祈るための象徴になり得たのだと思います」