【宗教を超えて】東大寺別当 橋村公英さん:大仏さまに手を合わせるひととき、怨みを忘れ、他者を理解する
仏像を通して自己と向き合う
東大寺は大仏の他にも不空羂索(ふくうけんさく)観音像をはじめとする国宝仏24体を所蔵し、1998年には「古都奈良の文化財」の一部として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された。 「仏教では、お釈迦さま以降の時代を正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)という3つの期間に区切ることがあります。正法とは、お釈迦(しゃか)さまが入滅してから1000年間(500年間という説も)を指し、教えと修行の証しとして悟りを得た生身の仏が現れ得る時代です。像法とは正法の次の1000年間(500年間という説も)で、教えと修行は存在しますが、その結果として悟りを得た仏が現れない時代です。末法とは像法の後の時代で、仏法の教えは生きていますが、修行さえもなかなか困難な時代。日本では1052(永承7)年から末法に入ると考えられていたそうです。 聖武天皇の治世は像法の時代になります。この時代には、お釈迦さまや悟りを得た生身の仏がおられないので、仏舎利(ぶっしゃり=釈迦の骨)を供養することが功徳とされました。そこで塔を建てて仏舎利を納め、お釈迦さまをしのび、瞑想(めいそう)したり、修行したりする。寺院にはそのような歴史もあります。聖武天皇は、『大仏造立の詔』を出された年に『像法の中興は実(まこと)に今日にあり』と述べておられます。このお言葉は、聖武天皇が七重の塔も含む国分寺を整えたり、大仏さまをお造りになられたりされた背景につながっているのではないかと思います。 像法の「像」は「似せる」とか「姿」の意味があります。仏や菩薩のお姿に似せて、修行の縁(よすが)とするために仏像も作られます。創建以来の多くの仏像を私たちはお守りしてきたのですが、2つのことを大切にしています。1つは、文化財としての保存・修復です。漆を塗り替えたり、劣化した部材を直したりしてメンテナンスをしてきました。もう1つは、人と仏像の関係性を保っていくことです。仏像は単なる彫刻品ではなく、そこには信仰心や慈悲などの仏教の教えが介在します。それは古代から繰り返されてきた祈りの心で、生活の一部でもありました。しかし、ライフスタイルの変化によって現代人はこうした祈りの心を持ち続けるのが難しくなりつつあります。古代の人々のようにはいかないかもしれませんが、仏像に向き合った時だけでも穏やかな心で手を合わせ、御仏(みほとけ)の慈悲の心を実感していただきたいです」