【宗教を超えて】東大寺別当 橋村公英さん:大仏さまに手を合わせるひととき、怨みを忘れ、他者を理解する
アジアを視野に入れた巨大プロジェクト
開眼供養には聖武太上天皇(上皇)と光明皇太后をはじめ、僧侶や役人ら1万人以上が参列、大仏と大仏殿の完成を盛大に祝った。開眼法要で大仏に目を入れたのは、インド出身の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな、704~760)だった。 「開眼師を仏教発祥の地であるインドから招いたことには、宗教的な意味に加え、政治的な意味もありました。当時、インド、中国、朝鮮を含め、仏教というのはその国の文化の在り方を測る、国際基準の1つとなっていました。現代で言えば、民主主義がその国に根付いているかどうかでその国の在り方が判断されるように、仏教が定着した国というのは対外的に豊かな国情を示す大きな要素でした。大仏さまは国を導き、護(まも)る象徴というだけでなく、アジア諸国に日本の文化力や技術力を誇示するための重要な外交的主張でした。『日本書紀』によれば、552(欽明13)年に百済の王の使者が仏像と経典を献上したとあります。その年から200年後に当たる752年に大仏開眼という一大法会を催したのもそのためです。全国に国分寺・国分尼寺も建ち、わずか200年で日本は中国に引けを取らない仏教国になったと伝えたかったのだと思います」
復興事業にも民衆が参加
約400年後の1180年、源氏と平氏の戦いに巻き込まれて大仏が傷つき、大仏殿が焼け落ちた。しかし仏の教えに忠実だった鎌倉時代の人々は重源(1121~1206)を中心に朝廷や武士、そして多くの民衆も協力して大仏を修復し、大仏殿を再建した。ところが1567年、戦国大名の戦闘に巻き込まれて再び大仏殿が炎上、大仏も頭部や腕が落ち、上半身は熱で溶け落ちてしまった。そして100年以上も雨ざらしにされたままになる。江戸時代になって、そんな大仏の姿に心を痛めた公慶(1648~1705)が再興のために立ち上がった。 「2度の復興事業においても、多くの人々が自ら願い出て大仏さまの修理と大仏殿の復興に参加したと言います。戦乱などで大仏さまが傷つくことはあっても、それはやむを得ない。傷ついた大仏さまを再興することもまた功徳になると多くの人々が信じたのです。鎌倉時代に再建された大仏殿は天平時代とほぼ同じ規模です。江戸時代に再建された現在の大仏殿は、当時の資材・資金不足のために正面の間口が11間(約88メートル)から7間(約57メートル)に縮小されましたが、1300年前の人々の思いは21世紀にも受け継がれていると言っていいでしょう。聖武天皇はこうした功徳を廻(めぐ)らし続けていくことが『万代の福業(ばんだいのふくごう=未来永劫に福を生み続ける行い)』につながっていくと言っておられます。その遺志を引き継いだ多くの人々が各時代にいたからこそ、私たちは今、大仏さまを拝むことができるのです」