「北斗の覇王」西良典の激闘。「チャンピオンになった直後、便所でバターンと倒れたんです」
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第34回 立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。 【写真】西良典と後輩・武藤敬司 前回に続き、総合格闘技のパイオニアのひとり、西良典(にし・よしのり)の格闘技人生に迫る(前回記事はこちら)。 ■「なんでもあり」の空手大会 「西、投げもできる、なんでもありの空手の試合に出てみないか」 1982年7月9日、仙台・宮城県スポーツセンターで行なわれる仙台青葉ジム主催のキックボクシング興行で、スーダン出身という触れ込みのハシム・モハメドとの対戦が決定した西良典は、キックボクサーとして結果を残すために所属する同ジムでの練習に明け暮れた。 しかし、ハシムは来日せず試合は流れてしまう。失意の西に、拓殖大学柔道部時代の先輩から冒頭の声がかかったのだ。正確にいうと、その先輩は西に無断ですでに出場を申し込んでいた。 いかにも昭和の武道系体育会の先輩・後輩らしい関係ではないか。その時点ですでに西はある程度覚悟を決めていたが、「先輩、ちょっと待ってください」と確認をとることも忘れなかった。 「投げもできるなら、絞め技も関節技もできるんですか?」「いや、それはない」「先輩、だったらなんでもありじゃないですよ」 この時点では、まさかその12年後に日本初のMMA大会となる『バーリトゥード・ジャパン・オープン1994』に出場して、ヒクソン・グレイシーと闘うなんて西自身も夢にも思っていなかった。 先輩が西に持ち掛けた大会は同年10月24日、同じ宮城県スポーツセンターで開催の『ミヤギテレビ杯オープントーナメント全東北選手権』。のちに『北斗旗(ほくとき)』の名前で行なわれる大道塾主催の第2回大会だった。 大道塾は、1977年の極真会館主催『第9回全日本空手道選手権』で優勝した東孝(あずま・たかし)が独立して創設。極真空手では禁じ手となっていた手による顔面攻撃を「スーパーセーフ」という顔面プロテクターをつけたうえで解禁し、さらに投げ技も認めた実戦性の高い格闘空手だった。現在は総合武道・空道(くうどう)として世界に普及している。 まだ世の中に総合格闘技がなかった時代、北斗旗はそのフレームを形成しつつあった。自分の意志ではないとはいえ、すでに出場を申し込んでいるのだから、断わるのもみっともない。試しに出場してみると、頭に被るスーパーセーフの前方の透明な出っ張りの部分が気になったものの、西は勝ち上がっていく。