「北斗の覇王」西良典の激闘。「チャンピオンになった直後、便所でバターンと倒れたんです」
決勝では第1回大会優勝者の〝小さな巨人〟岩崎弥太郎とぶつかったが、キャリアの差は如何ともしがたく準優勝に終わった。 大学まで柔道で汗を流し、極真やキックもやった自分がなぜ勝ち切れないのか。「これでは立場がない」――故郷の長崎に戻り柔道整復師として身を立てる青写真も思い描いていたが、「仙台に残って、もっとスパーリングをしないといけない」と決意し、大道塾総本部に通うようになった。 大道塾には大型の選手もおり、スパーリング相手には事欠かなかった。極真やキックを通して打撃に対する探究心も人一倍強かったが、自身の格闘技のベースである柔道の投げを使えるところも好都合だった。 ■塾長・東孝との酒席 西同様、柔道出身の東孝は西に目をかけた。歳が近かったこともあり、北斗旗のルールについてこんなやりとりをすることもあったという。 「西、寝技を取り入れたいんだけど」 「いや、先生、寝技は注意したほうがいいですよ。柔道出身者は基礎体力があるから、全面的に寝技を解禁したら打撃系の選手が勝てない可能性も出てきますよ」 90年代になってから北斗旗も制限時間を設けながらも寝技を解禁することになるが、当時は西も想像できなかっただろう。 東は試行錯誤していた。そんな東に西は助言できる関係だった。 「どこかで自分が先生に寝技を進言したと書いてあったけど、それは反対だと思うんですよね。僕はどちらかといえば、打撃のほうが好きなので」 稽古していると、東から「ちょっと話がある」と声をかけられることもよくあった。一緒に飲もうという合図だ。東の部屋に招き入れられると、新潟の選手から差し入れられた高価な日本酒「越乃寒梅」が用意されていた。 「先生、越乃寒梅なんてもったいないですよ」「大丈夫だ。たくさんもらっているから」 そう言いながら押し入れを開けると、10本以上の瓶が収められていた。ほろ酔い気分で東はこんな本音を吐いたこともあった。 「西、俺は顔面(パンチありのルール)をやろうと思ったけど、稽古が終わったあと楽しく酒を飲めれば良かったんだよ」 東との酒席を回想し西は言う。 「僕はあまりお酒を飲むほうではなかったけど、楽しかったですね。先生も一番楽しい時代だったんじゃないですか」 努力の甲斐あって、翌83年10月24日の北斗旗無差別決勝で西は岩崎にリベンジして初優勝を果たす。その後、北斗旗は拳サポーターを着用して闘うようになったが、当時は軍手をつけて闘っていた。 西は「素手で闘う人もいましたね」と振り返る。「バンテージ? 私が出ている頃にはいなかったと思います。現れたのはずっと後だと思いますね」 拳による顔面攻撃は突きではなく、掌底を使う者もいたが、少数派だった。当時の激闘を物語るかのように、いまも西の一部の指は曲がったままだ。 「ベアナックルで対戦相手のスーパーセーフを思い切り殴っていた代償ですね」 拳以外にも、一日に何試合も勝ち進まなければならないトーナメントの代償はあった。