「法の支配」が揺らぐ中国市場で問われる「日本企業の覚悟」 …次の30年を後悔しないために
「投資家」こそが希望
確かにそれは、場合によって大きな可能性を持つ市場を捨てる、という話にもなる。そんな大きな決断をサラリーマン経営者たちが降すことができるのか、は大きな課題だ。ただ、今度はなんとかなるのではないか、と思える前回との違いがある。その違いを示すものが、図4、1970年から2023年までの日本株の所有主体の変遷になる。 このグラフが明確に語るように、1990年には5%程度だった外人比率は2023年には30%を越えている。また、35%を越えていた金融機関比率は8%程度に落ち、金融機関と事業法人が50%を越え事実上、経営者をメインバンクや関係する事業会社が守っていた1990年代のまさに純日本的な意思決定システム「株式の持合い構造」は霧散している。 経営者が最後にお伺いを立てなければならない相手は、むろんオーナーだ。事業を自ら興したのであれば、それはそのまま自分自身になるし、どこかで血族が事業を興したものを継いだのであればそれは血族になるが、多くの場合、公開された巨大企業について、それは分散化された不特定多数の株主になる。 ただ、「持ち合い」は、不特定多数の株主ではなく、お伺いを立てる対象を極端に言えばメインバンクのみ、にしてしまう。すると、その時の「空気」が経営者を後押しするし、本質を考えるよりは目先の利益を追う国民性が、「天安門事件の意味するもの」より「潜在的な巨大市場の魅力」を上としたのが1989年だったのでは、と思う。 しかし、現在は35%を保有する外国人投資家が、もっと本質的なものにも目を向けている可能性がある。例えばそれはSDGsやESGをそれら外国人投資家が重視していることからも分かる。 そうした本質的な思想性を持つ外国人投資家がもはや無視できない牽制者として機能している現実を前提に、例えば米国が中国との戦略的競争を行おうとする最も大きな動機が、自由でありたい・あるべきだ、という思想に支えられているとしたのなら、逆に株主が牽制者となって、或いは理解者となって、より長期的なスパンでの意志決定を後押しし、許容することが想定できるだろう。 ウイグル地区での人権抑圧に絡むような疑いを持たれた企業を敬遠する動きが、消費者の世界だけでなく投資家の世界にもあり、企業はそうしたことに敏感になっている。「法の支配に基づく自由な世界」を投資家がなによりも希求している、と考えれば、それは当然の論理的帰結でもある。
三ツ谷 誠(IR評論家)