「法の支配」が揺らぐ中国市場で問われる「日本企業の覚悟」 …次の30年を後悔しないために
日本企業に「覚悟」はあるか?
この2040年ビジョンが掲げる言葉で一番重要なのは、「法の支配に基づく自由」という言葉になる。その自由があるからこそ、一人ひとりの個性が生かされた世界もまた存在する。 しかし、現在の中国の体制について言えば、そこには本当の意味での「法の支配」は存在しないのではないか。なぜなら、それを越えたところに(憲法の外部に)党は存在し、西欧近代の思想や歴史を踏まえて我々の世界の根本原則となった3権の分立はそこにはないからだ。 比喩的に言えばそこにあるのは「党の支配」であり、「党の支配に基づく、無数に張り巡らされた監視カメラで党に監視されながら、許容された範囲でのみ自由を与えられる世界」だろう。しかも党の細胞(党員)は、あらゆる場所(企業にも、その工場にも、街角にも)潜んでいる。つまりここでは社会は、それ自体が党という一匹の有機体として存在している。それは分散化され、多様な主体が倫理やまさに法の制約のなかで、自由に自らの生を謳歌する社会とは異なった社会だ。そのような社会に将来世代は生きてみたいと思うのだろうか。米中の戦略的競争の激化、と書かれた背景にあるものは、そうした意味での思想闘争でもある。 そう理解したとき、現在、無策であったり、是々非々での対応などという甘い対応を選択することが、次の30年、まさに2040年代に生きる将来世代から、謗りを受ける可能性は排除できないのではないか。もちろん、こうした公的な意味合いを持つ提言が直接的な記載を嫌うのは理解できる。しかし、ここに書かれた施策「国際的なルール整備」「グローバルサウスとの連携の強化」「総合的な国力強化」からは、そのような本質的な認識を経団連に加盟する我が国の有力企業がそれぞれ保持しているのか、は分からない。 中国市場の魅力に抗えず、また包囲網の一番弱い環を崩していくしたたかな外交に嵌り、目先の利益を追って財界が中国にまた擦り寄ることは想像できる動きでもある。例えば、経済安保の要素も取り込んだ自由貿易のルール化、と掲げていても、どこまでの財は経済安保的に問題ないのか、その範囲を決める尺度には危うさが常に伴う。甘くはないのか、というのはそうした意味だ。本当に関係者が本質的な意味での「危うさ」を共有し、対処しようとしているのか、繰り返すが、施策からではその言わば「覚悟」は窺えない。寧ろ「局面においては、あくまで法の支配に基づく自由を選択するそれを共通の意志とする」と強調すべきではなかったろうか。