日本の性教育はなぜ遅れているのかーー高校生に「人間と性」を教えた元保健体育教員が語る、盛り上がりとバッシング #性のギモン
戦後は「純潔教育」、80年代以降に「エイズ教育」
村瀬さんは1974年に最初の本を出版。教育界で徐々に名が知られていく。やはり性教育に取り組んでいた山本直英さん(当時、吉祥女子中学・高等学校の副校長)との出会いをきっかけに1982年に「“人間と性”教育研究協議会」(性教協)を立ち上げた。 ――性教協の立ち上げにはどのような反響がありましたか。 「全国の先生たちから長い手紙がいくつも届きました。『まわりの非難やからかいに耐えながら取り組んできました。つながりのない中で孤軍奮闘でした。こういう団体ができて本当にうれしい』というね。市ケ谷の私学会館で行った結成大会には会場がぎっしりと埋まるくらい全国から先生たちが集まりました。それから毎年のように各地でサークルができていきました」 「数百人で推移していた会員数が一気に増えたのは、エイズ(後天性免疫不全症候群。HIVに感染し発症する)の問題が出てきたときです。学校でもこの問題を取り上げなければいけないということで、文科省がエイズ教育と性教育を結びつけたんです。それで、性教育について学びたいという先生たちが研究会のセミナーに殺到しました」
――日本では1985年に最初のエイズ患者が報告されました。文科省が性教育に言及したのはそれが初めてなんですか。 「それほど熱心にやったのは初めてでした。もっとさかのぼれば、戦後の文科省の方針は純潔教育です。売春防止法ができたのが1956年ですから、そういったことに巻き込まれてはいけないということで、女子生徒の性行動を抑制していった。純潔教育は男子は対象じゃないんです。日本に性を買う側を罰する法律はありません。純潔教育が発していたメッセージは女性の抑圧と男性への警戒心ですね。それでまともな性教育なんてやれっこない」 「エイズの問題があってようやく学習指導要領に性に関することが盛り込まれました。性教協も90年代半ばに会員数が1000人を超えました。性教育の研究や実践がじわじわと広がっていったんです。ところが、先ほど述べたような男性中心の社会のあり方を変えたくない人たちはそれを快く思わなかった。学校や教員がターゲットにされました」