山本理顕「プリツカー賞受賞者が語る、日本の建築と能登復興」
日本は建築の後進国
そのプリツカー賞ですが、日本人の受賞者は私が9人目で、国籍別ではもっとも多くなっています。では日本は建築の先進国なのかと言えば、実はまったく逆です。 伝統的に、日本の建築でもっとも実権を持っているのは発注者(施主)、公共施設であれば行政です。彼らは、とにかくローコストで機能的で耐久性さえあればいいという考え方が強い。建築家に期待されるのは、敷地内にその意向に忠実に従った建物を建てること。そのため、建築の技術は高度に発達しました。しかし建築家自らが思想を問われることはなかったし、仮に持ったとしても受け入れてもらえることは少なかったのです。多くの建築家がそのことに疑問を抱くことなく、したがって反省もしないまま今日に至っています。 それを象徴するのが、「建築家」という立場の曖昧さです。「一級建築士」は存在しますが、これは国家から与えられる資格です。私が持っている一級建築士の免許証には、国土交通大臣の印章が押してあります。建築について、私より知識も技術もないはずの大臣あるいは行政(官僚機構)が、私に「設計してよい」と許可を与える形になっているわけです。 また「日本建築家協会」もありますが、会員になる条件は一級建築士であること。つまり国家から認められた資格を持つ人でなければ、専門家集団にも入れない。つまり専門家集団が国家や行政の下部組織になってしまっているのです。 その点、特に欧米の専門家集団は国家から完全に独立し、自治を貫いています。しかるべきディプロマ(高等教育機関の卒業証明書)さえ持っていれば会員になれるし、もちろん設計もできます。その分、彼らは社会に対して責任を負い、どうすれば専門家集団として社会貢献できるかを自分たちの立場で考えている。だから発注者に対しても、あるいは国家に対しても主張できるのです。この差は極めて大きいと思います。 日本にはそういう基盤がないので、志のある建築家が何かを提案したければ、大変な労力を求められます。その活動が、むしろ海外の建築家や専門家の目に留まりやすいのかもしれません。プリツカー賞の受賞者が多いのは、おそらくそのためです。日本人建築家の技術やアイデアが国際的に高く評価されることは嬉しいですが、素直には喜べない事情もあるわけです。