なぜ、「おそろしい怨霊」が「神さま」に変わったのか? 菅原道真が「学問の神様」になった理由
平安中期に摂関家として、天皇をも凌ぐ権力を有した藤原氏一族。彼らは飢饉や疫病などによって、貧しく苦しい生活を強いられた民衆を顧みることもなく、富を独占し続けた施政者であった。彼らに天罰を与えてほしいとの人々の願いが、菅原道真の祟りに仮託されたのではないか? 藤原王朝と呼ぶべき富を独占した一族への反発、それこそが、道真が怨霊として祟ったと語られた本当の理由だったと思えてならないのだ。 ■右大臣にまで上り詰めたエリート 「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 かの菅原道真が、左遷先の大宰府へと向かう道中に詠んだとされる歌である。屋敷に残してきた梅の花に思いを馳せ、東風に流されたその香りだけでも楽しみたい…との願いが込められている。まるで、「私がいなくとも、ちゃんと花を咲かせるのだよ」と、語りかけているかのようである。 時は昌泰4(901)年、菅原道真は左大臣であった藤原時平に、「醍醐天皇を廃して、娘婿を皇位に就けようとしている」と讒訴(ざんそ)されて大宰府への左遷が決まった。無論、左遷とは程の良い言い方で、その実、道真が任じられたのは大宰員外帥(だざいいんがいのそち)。 員外と記されているように、大宰府の職員の数にも入らない閑職だ。実質的な流罪である。役所の建物に入ることも許されず、川向かいの粗末な官舎で寝起きするだけ。それも、雨漏りさえするあばら家(榎社)だったといわれている。もちろん、俸給があるわけもなく、半ば軟禁状態で、食事さえままならなかったとも。 見かねた老婆が、格子越しに梅の枝に餅を刺して差し入れたとの逸話(梅ヶ枝餅の由来か)までも、まことしやかに語られるほどであった。道真が、自らを罪に陥れた時平を恨んだことはいうまでもない。 道真は参議であった菅原是善(これよし)の三男として生まれ、幼少の頃から詩歌の才をも褒め称えられた秀才。文章博士から参議兼式部大輔を経て右大臣にまで上り詰めるなど、トントン拍子に昇進を重ねたエリートであった。そこに突如訪れた不運。 右肩上がりの希望に満ち溢れた人生を歩んできた人物だっただけに、奈落の底に落とされたような思いがしたに違いない。それでもいつかは疑いが晴れて都に呼び戻されるはず…と、微かながらも期待していたのかもしれない。しかし、願いも虚しく、2年後の延喜3(903)年に薨去(こうきょ)。真相が解明されることもなく、事件は闇に葬られようとしていたのである。 ■道真の怨霊が祟った? ところが、それから程なく、宮廷内で次々と不幸が起きた。まず、道真を讒訴して左遷へと追いやった時平自身が、延喜9(909)年、わずか38歳にして病死。その4年後の延喜13(913)年には、それに加担していた右大臣・源光(みなもとのひかる)までもが、狩りの最中、泥沼に転落して溺死。死体を見つけることさえできなかったという。 さらに、延喜23年(923)には、時平の讒言を受け入れて左遷人事を行った醍醐天皇の皇子・保明(やすあきら)親王が薨御。時平の娘・褒子(ほうし)も急逝するなど、道真の追い落としに関わった関係者やゆかりの人物が次々に亡くなっていったことで、道真の祟りがまことしやかに噂されるようになっていったのである。 そして延長8(930)年、平安京の内裏の一つである清涼殿に雷が落ちて多数の死者が出るや、誰もが道真が雷神となって、自身を罪に陥れた者共への恨みを晴らしたものと信じられるようになったのである。 恐れを抱いた朝廷は、道真の霊を慰めようと、罪を許すとともに、最高位である正一位を贈り、最高職である太政大臣まで追任。さらに、道真を葬っていた安楽寺に新たな社殿(太宰府天満宮)を設けて祀ったのである。 ■道真の祟りを叫んだのは、富を独占する藤原氏一族への反発だったのではないか? それにしても…である。道真の怨霊が祟ったのは、罪に陥れられた挙句左遷させられたことが原因であったかのように見られているが、それは事実だったのだろうか? いかに地位や身分に固執した人物であったとしても、栄達の見込みを断たれたぐらいで、怨霊と化して世に祟りを為すことは想像しづらい。 道真とは、数々の詩文から推測してみれば、世俗の煩わしさに縛られることを嫌った人物であったはず。そんな彼にとって、権力などたかが知れたもの、あるいは儚いものと考えていた可能性もあるのではないか? 右大臣に上り詰めただけで十分、それ以上の栄達など望んでもいなかったことも考えられる。それが祟りを為した原因とは思い難いのだ。 しかも、祟りを為したとされる期間があまりにも長すぎる。一個人の怨霊がここまで長く祟るものなのだろうか? 道真の祟りとみなされたものの本質は、むしろ違うところにあったと思えてならないのだ。 この時代、富を独占する藤原氏一族とは対照的に、民衆は飢饉や疫病などによって貧しく苦しい生活を強いられていた。長い間そのような生活を続けてきた民衆が、心の奥底で藤原氏への天罰を望み、最終的に、失意のうちに亡くなった道真の祟りとして仮託(かたく)された。そんな気がしてならないのだ。 また、道真には23人(あるいはそれ以上か)も子がいたといわれている。そのうち4人が道真左遷に伴って流罪に処せられ、2人が道真に同行。うち1人が早世。残る1人も、道真薨去(こうきょ)後、刺客に狙われて惨死している。左遷時に病の床に臥せっていた妻も、道真を残して死んだ。民のことを慮(おもんぱか)る清廉な儒者として慕われていた道真、その彼が、自身ばかりか家族まで巻き込まれたことに、人々の同情が集まった点も見逃せないだろう。 『鬼滅の刃』では主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)も、妹を除いて一家を惨殺されている。鬼と化した妹を救いたいとの思いに加え、家族を惨殺された境遇には、道真と通じるものがありそうだ。炭治郎の場合は、家族の敵を討つべく鬼滅の刃をふるう原動力となっている。と同時に、キャラクターへの共感を持たせるひとつの役割として機能している部分もある。 道真のその後の状況を見てみよう。道真薨去から数えて39年後の天慶5年(942)のことである。平安京に住まう少女・多治比文子(たじひのあやこ)に道真の霊が乗り移って、自らを祀るよう託宣したという。それが京都市上京区にある北野天満宮の始まりであった。 天徳3年(959)には、右大臣・藤原師輔(もろすけ/時平の甥)が壮麗な神殿を建造。祟る霊魂が転じた強力な雷神信仰が盛んとなった上に、菅原家の稼業であった学問の守り神としての性格が加わっていく。江戸時代に入ると、寺小屋に道真を神格化した天満天神が学問の神様として祀られるようになる。 この辺りから、祟る神としての性格が忘れ去られ、学問の神様としての認知が高まっていったようである。道真信仰の始まりが怨霊封じであったことに心を痛める人も、今や少数派になってしまったのである。
藤井勝彦