生きていく杖になる本を。パレスチナへの連帯を起点に生まれたひとり出版レーベル「猋社」に込める願い
表現活動と、パレスチナへの思いが結びついて。広島出身というルーツから
2023年10月7日、イスラム主義を掲げるパレスチナの民族解放組織ハマスは越境攻撃をイスラエルに実施。それに対してイスラエルはパレスチナ自治区ガザを空爆し、侵攻を激化させている。 それ以来、現在に至るまで虐殺が続いている。 佐古さんが能動的に活動しはじめたのは2024年1月ごろから。初めはデモに参加し、もともと知り合いだった現代アーティスト、木村りベかさんとともに「プラカード屋さん」として参加するようになった。その後の5月には『あたたかい家』を開催。 そこまで関心を寄せ行動できたのはなぜだったのか。戦争に対する思いの背景には、子どもの頃から身近にあった原爆、平和教育がルーツにあったという。 ―佐古さんは2024年、『パレスチナ あたたかい家』をはじめ、イスラエルの侵攻に抗議するデモへの参加など、精力的に活動されていましたね。具体的な活動を始める端緒はありましたか。 佐古:もともと知り合いだったりべかちゃんが、SNSでガザ侵攻への抗議を必死に発信しているのを見たことがはじまりでしょうか。私もニュースでは見ていたけど、パレスチナ問題のことはよく知らなかったんですよね。 だから調べてみると、そもそもこの問題の歴史は70年も前から続いていたと知りました(※)。そもそも、いままでなぜ知らないままでいたのか、ということにまず驚いたんです。私は広島市出身で、幼いころから平和教育を通して被爆者のお話を聞いてきたので、ずっと戦争や核兵器、原子力発電所については考えていました。それでも知らなかった。そういうなかで、これは声を上げるべきことだと思ったんです。 それでまずは、りべかちゃんと一緒にデモに参加しようと。プラカードがあればデモの参加者が使ってくれるかなと思って、イラストを描いてデザインして、デモをしている場所の片隅で「プラカード屋さん」を開いたんですね。 ※1948年5月14日、パレスチナにイスラエルが建国したことによって第1次中東戦争が起こった。200以上の村が破壊され、70万人以上のパレスチナ人が故郷と家を失った。これを、パレスチナでは「ナクバ(破局)」と呼ぶ。 ―そこで、佐古さんの表現やものづくりの活動と、反戦の思いとが結びついたんですね。 佐古:そうですね。たくさんの人が私の絵を選んで使ってくれて。それまでは、それこそ双極性障害によって正社員で働くことができなくなって……長く「ものづくりの喜び」みたいな感情を感じられてなかったんです。デモなので「喜び」というには複雑ではあるんですけど……。自分の絵が目の前で必要とされている場面に出会うことって、表現を続けていてもなかなかないんですよね。 なので、デモのたびにデザインを増やしたり、ダンボールを持ってきて参加者が自由に描けるスペースをつくったり、そういうことから始めました。そうして、りべかちゃんと一緒に5月の『パレスチナ あたたかい家』への企画にもつながっていきました。 ―広島市出身で、幼いころから平和教育を受けてきたというルーツは、いまにつながっているんですね。 佐古:長崎と広島の夏は、小中高、必ず戦争と平和について考える授業があります。そんなふうに育って、大学進学のために上京したときに驚愕したエピソードがあって。 広島出身の友達と一緒に、新入生歓迎会に参加したときのことです。友達が広島出身だと話したら、先輩から「アトム」というあだ名を付けられたんですね。 広島にいたときには、どんな人でも原爆や戦争を茶化すことはしなかった。ネタとして扱う、そうすることに抵抗も感じない、そんな感覚の人がいることを目の当たりにして初めて、広島の感覚は全国的にみると「当たり前」ではないんだと思いましたね。私たちは基本的に、広島と長崎の原爆投下の日時は暗記してます。全国的にもみんなそうだと思っていました。 だから……そうですね、平和教育のすごさというか。私の根本的なところには、それがありますね。