「これって、いいの?」鑑賞者の倫理観を揺さぶるソフィ・カルの「不在」を写真研究者・村上由鶴が紐解く
写真という媒体の持つ「不在」と、鑑賞者に積極的に干渉するようなカルの作品
一方で、生まれてはじめて海を見た人が、海を見る光景をとらえた映像作品『海を見る』を見ると、鑑賞者は自分がはじめて海を見たときの感覚を思い起こしたい、と感じるのではないだろうか。しかし、少なくともわたしは、その感覚を、リアリティを持って思い出すことができなかった。 そもそも、わたしがはじめて海を見たのはいつだったのだろう? わたしは感動しただろうか……? 自分の記憶なのに、それを呼び出すことができないこのもどかしさが記憶の不在の手触りなのだろう。このように、カルの作品は摩擦抵抗となって鑑賞者をその問いのなかに引き止める。 ところで、カルがキャリアの初期から作品の一部として用いてきた写真は、ロラン・バルトが「それは、かつて、あった」と言ったように、そもそも写真という媒体自体に「不在」が組み込まれている。写真という媒体は、誰かがかつてそこに存在した証拠であると同時に、その存在がすでに過ぎ去り、そこにいないことを示す。また、カルのオートフィクションの舞台となる美術館は、「不在」の殿堂と言ってもいいだろう。すでにこの世にはいないか、あるいはいたとしても作品だけを、つまり自分の痕跡だけを残して、アーティストはいつもそこにはいないのだ。 それでもカルは彼女自身はそこにいなくても、鑑賞者を、単に受動的に作品を眺める存在として扱うことはなく、むしろ積極的にこちらに干渉してくるようである。 例えば、『なぜなら』のように手でめくらせるような作品は、鑑賞者に「めくって見る」ことを強いることで、わたしたちのなかにある(かもしれない)覗き見趣味を露呈させ、ついでにばつの悪ささえ覚えさせる。このように、彼女は鑑賞者に気まずい思いをさせ、倫理的な葛藤を引き起こすことでいつも作品の一部にわたしたちを巻き込むような仕掛けを施している。 カルの作品における「不在」は、挑発的なアプローチを通じて実践されるために、鑑賞者を困惑させるが、その先に視覚や、あるいは存在を超えたヴィジョンを指し示すのだ。
テキスト by 村上由鶴 / リードテキスト・編集 by 今川彩香