ファミコンは「日本発のイノベーション」ドラクエで人気爆発、世界に広がったゲーム市場 #昭和98年
ドラクエ以降、裏方であるゲームクリエイターに光が当てられるようになる。従来のゲーム作品では制作者のクレジットは出さない不文律があった。ゲーム制作会社同士で人材の引き抜きがあったためだ。だが、ドラクエではエンドロールに映画のように制作者が記された。以後、ゲーム業界でもスター的なクリエイターが現れていった。 現在のゲーム制作会社は社員数千人という規模も珍しくないが、当時は現在のスタートアップ企業のように数人で始まるような制作会社も珍しくなかった。 「例えば『ボンバーマン』や『桃太郎電鉄』を生み出したハドソン(2012年にコナミに吸収合併)は、もともとアマチュア無線のショップ。そこにパソコンマニアの北海道の大学生たちが集まってきた。スクウェア(現スクウェア・エニックス)も最初はパソコンショップで、そこに集まっていたアルバイトの学生たちから『ファイナルファンタジー』などのファミコンソフトがつくられた。『ドラクエ』のエニックス(現スクウェア・エニックス)はまったくの別分野の会社でしたが、優れたゲーム制作コンテストを企画して、そこからファミコンソフト事業に舵を切った。応募したのはのちにドラクエの開発に携わる中村光一さんでした。当時はそんなパソコン好きの青年たちが集まり、四六時中ワイワイとゲーム開発をしていたんです」
ゲーム市場を黎明期から見てきた浜村さんからすると、本格的にゲーム産業が生まれたのは、ファミコンよりも、次のスーパーファミコンの時代だという思いが強い。 「ファミコンは玩具としてのヒット商品でた。それが次世代機のスーパーファミコンというハードが継続して発売され、“産業”になったと思うのです。そしてこのスーファミ前後から、他社でも別のゲーム機がいくつも発売された。その中から世界に広がったのはプレイステーションでしたが、その普及にはソフトのCD化でコストが下がったことも大きかった」