ファミコンは「日本発のイノベーション」ドラクエで人気爆発、世界に広がったゲーム市場 #昭和98年
■浜村弘一・KADOKAWAシニアアドバイザー「PC好き青年の集まりが大会社へ」
「私が創刊に携わった雑誌『ファミコン通信(ファミ通)』は1986年6月創刊と、専門誌ではもっとも後発でした。ゲーム会社も最新情報は部数トップの雑誌に流すので、苦戦を強いられました。発売されるソフトの数が膨大に増える中、刊行スタイルを隔週刊行から週刊に変更したことをきっかけに、情報の速さが功を奏して部数を伸ばしていきました」 「ファミ通」元編集長の浜村弘一さんはそう振り返る。まだ世の中にインターネットがない時代、専門誌はユーザー同士が情報を交流させるコミュニティーの役割も担った。特筆すべきはゲームの裏技を掲載したコーナーだ。例えば『スーパーマリオブラザース』がヒットした要因には『無限1UP』や『ワープゾーン』など隠しコマンドや裏技が多数存在したこともあると指摘されている。今なら回収騒ぎになりそうなバグを持った作品もあったが、こうした仕掛けはメーカーが意図していたものが少なくないと浜村さんは言う。
「メーカーは、一度ゲームをクリアしても繰り返し楽しめるよう、隠れキャラや隠しコマンドをつくっていました。それには事情もありました。当時、ファミコンのカセットは製造から店頭に並ぶまで2カ月が必要でした。追加注文が入ってもすぐ売れるわけではない。そこで話題や人気を維持するための仕掛けでもあったのです。一方で、開発者が意図していないプログラム上のバグも全国から情報が寄せられました。今なら回収騒ぎとなりそうですが、当時のユーザーは『それも面白いよね』と笑い飛ばすような大らかな時代でした」 こうしたファミコンの成長が社会現象になった要因として大きいのは「週刊少年ジャンプ」の存在だと浜村さんは述懐する。当時400万部超の部数を誇ったジャンプ内の「ファミコン神拳」というコーナーには読者から数多くの投稿が寄せられた。同時に、『ドラゴンクエスト』はこのジャンプを基盤として生まれた。 「『ドラゴンクエスト』は、ジャンプ編集部の編集者、鳥嶋和彦さんがプロデューサーに近い存在で動いていました。鳥嶋さんは鳥山明さんが描く『ドラゴンボール』の担当編集者。シナリオライターの堀井雄二さんも当時ジャンプのライターでした。鳥嶋さんじゃなかったらドラクエのキャラクターを鳥山さんに依頼することはできなかったし、鳥嶋さんがいなかったらドラクエはできなかったと思います」