米大統領選、過去の大接戦と圧勝劇は? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
【接戦】1968年「ニクソン×ハンフリー」
ジョンソン政権の末期、米軍が南ベトナム側で加わっていたベトナム戦争が泥沼化し、政権批判が次第に強まります。大統領が自身の再選を諦めたため民主党は次期候補者選びに苦労しました。最も人気があったロバート・ケネディ上院議員が暗殺されて一層混迷。結局ハンフリー副大統領が民主党の指名を受けるも、政権の一翼を担っていたため党内反戦派からは当初嫌われていました。 またもともとは民主党のウォレス前アラバマ州知事が公民権法反対、ベトナム戦争強硬解決を訴え第三党「アメリカ独立党」から出馬しました。同党と民主党は地盤が重なっていてハンフリー陣営としては痛手となります。 対する共和党はベトナムからの「名誉ある撤退」を主張したニクソン元副大統領が浮上しました。1960年大統領選の敗北後、不遇をかこっていたニクソン氏も64年の共和党大敗以降その実力が再評価されていたのです。 選挙はニクソン圧勝の見通しから一転し、ジョンソン政権の手法から距離を置き始めたハンフリー候補が巻き返すも32州でニクソン候補が勝利し念願の大統領への切符を手に入れました。72年も圧勝して再選されるも一大政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」で猛反発に遭い74年に辞任しました。
【圧勝】1980年「レーガン×カーター」
ウォーターゲート事件の余波が収まらず共和党政権への批判が強いなか76年に民主党はカーター候補を担いで当選。民主党が政権を奪還しました。 しかしカーター大統領の任期中は外交で失点ぞろい。79年に反米のホメイニ師率いるイラン・イスラム革命が起きてアメリカ大使館が占拠され、人質救出の軍事作戦を行ったものの失敗。さらに革命に基づく石油高などで経済も不振に陥りました。同年にはライバルのソ連によるアフガニスタン侵攻を許してしまいました。 俳優からカリフォルニア州知事を務めたのが共和党のレーガン候補です。後の共和党の基本路線になる「レーガノミクス」を掲げて経済再生を訴えるとともに軍事面では「強いアメリカ」復活を訴え圧勝しました。84年も圧勝で再選されます。