『母を葬る』そのとき、あなたは? 秋吉久美子さん・下重暁子さん対談
――『母を葬る』で、秋吉さんは母親のみとりのときに「子どもを葬るかのうような気持ちになった」と書かれています。 秋吉 母の死は、身を割かれるようなつらさでした。父のほうが精神的には楽でしたね、父には申し訳ないですが。「母なる大地」といいますけど、母が生きていたときに大地のように自分を支えてくれたっていう感覚はさほどなかったんです。それなのに、母が亡くなったときは自分の足元が失われてしまったかのうような感覚をおぼえ、愕然としました。 母は韓国ドラマに入れあげるような乙女チックなところがあって、年上の人という感じじゃなかった。私のほうが常にすれているんですよね。 下重 すれているというか、あなたは大人ですよ。一言でいうと面倒見がいいんだと思う。私なんかは母の面倒って見たことない。面倒を見るのは向こうの役割、私は反抗するのが役割なんだって考えていましたから。 秋吉 母には反抗なんて考えつきもしませんでした。いや、父との間では反抗期もありました。少女時代に芽生えた、家父長社会への反抗心みたいなものでしょうか。でも母に対しての反抗期はなかった。私にとっての母は、ちょっといたいけな存在でしたから。 下重 母のことをいたいけな存在と考えられるのは、子どものときから、よほどませていたのでしょう。お姉さん、特に長女は、母親代わリにとどまらず母親よりもっとしっかりするっていう人が多いですね。私は病気で可愛がられすぎたもんですから、全くそういうところがなくて、母のことをふがいなく思っていました。お母さんに対して、優しくしてあげようとか、面倒を見て上げようとか、そういう考え方は、うらやましい気がしますね。 人間、必ず死は訪れるわけですが、死っていうものはいったい何だろうっていうことを見せてくれるのは、やっぱり一番身近なところでは母親ですよね。死をどう考えるかは、それまでどう生きてきたかっていうことに重なるし、これから自分がどう生きていくかということにも重なります。母の死が目の前に来た時にどう考えるか、どういうふうに自分を処置するか、それは自分がこれから迎えるであろう死と重なると思います。だから母の死は私の死なんです。そういうふうに思いましたね。 私には母が死んだことへの実感が無いんです。寂しさもないし、母の夢も見たことがない。随分冷たい人間のようですけど、そうじゃない。母は私の血となり、肉となり、またはその辺に飛んでいて目に見えないけれども、いつも私を守っているんです。そういう意味で、母はまだ死んでいない。じゃあ、いつ死ぬんだろうと考えたら、私が死んだときに一緒に死ぬんだなって思いました。私が死ぬときが、本当に母が死ぬときなんです。