【オニール八菜連載 vol.1】4つの国、4つの都市で、世界が舞台のバレエ人生。
● フランス、パリ時代へ
ー パリ・オペラ座で働き始めた時、言葉ができない苦労はありましたか。 パリに来て、最初はフランス語がゼロ! 日本からニュージーランドに引っ越した時は英語も喋れたし、漢字はちょっと大変だったけれど日本人学校だったし。それに何よりも子どもって適応力があるじゃないですか。それに比べると、パリに来てオペラ座になじむのは本当に大変でした。東京からニュージーランドのオークランドに引っ越して、そこからメルボルンへ移ってもカルチャーショックとかなかったので、そうしたことって考えもしなかった。でもパリに来て1カ月くらい経ったところで、あ、大変だな!って。でも少しずつフランス語が喋れるようになってからは......。パリに来て、オペラ座で知り合った仲間は当時みんな若かったせいかもしれないけれど、同じ年齢でも、なんだか彼らが子どもっぽい!って感じました。メルボルンでは学校に寮がなかったので、なんでも自分ひとりでやってたんです。アパートでは2つ年上の日本人女性と一緒に暮らしていて、この時に日本語がすごい上達したんですよ。 ー エコール・フランセーズについてどのように学びましたか? オペラ座のスタイルがあるのはビデオなどを見て知ってましたけど、どうして違うのかということまでは突き詰めてなかった。オペラ座に来て、舞台を見て、まわりのダンサーたちの仕事を見て、ああこれなんだ、って! それで私がすぐにフランス派の踊りができたわけではないですけど、実は私はほかのダンサーの真似をするのが結構上手なんですよ。身体の使い方とか見れば真似ができるんです。言葉が100パーセントわかる状況ではなかったので、こうして真似をしながら身体で覚えてゆきました。 ー コール・ド・バレエ時代、何が印象に残っていますか? この時代、大変だ!ってことがよくありました。代役って、いつ舞台に出るのか、どのパートを踊るのかわからないまま舞台裏で控えているので、すごいストレスでした。これは怖かった。オペラ座での最初の頃は、『白鳥』『ラ・バイヤデール』『ドン・キホーテ』......ほとんどがこうした形でステージに出ていました。コール・ド・バレエの代役はステージに立つ位置がその前の時とは反対側ということもあって、上げる腕や脚の左右を間違ったことはたくさんあります(笑)。 ー プルミエール時代の7年間、得たことは多いと思いますか? はい。この時代は長かったけれどオペラ座の中で自分がどういうふうにこの時期をうまく活用すればいいのかということを学びました。踊りたい主役に配役されなくても、たとえば『白鳥の湖』ならパ・ド・トロワは何度やっても毎回楽しかったので、踊ることの楽しさを忘れることはありませんでした。自分は本当に踊るのが好きなんだなあって、実感できて......。長かったんですけどそういうこともあり、また我慢することも学びました。良い経験をしたんじゃないでしょうか(笑)。同じ世代の人たちがその間にエトワールに任命されて、ああ、私は一生プルミエールのままかな、と思うことはよくありました。若い時はやる気満々だったこともあって、どうして私じゃないの!!って思うことも。でもローラン・ノヴィスとか私を指導してくれる先生たちに、"人それぞれなのだからほかの人のリズムに自分を合わせてはいけないよ"と言われて、自分はマイペースでやってゆけばいいってわかってから心が落ち着き、自習することがどれだけ大事かというのもわかったし......。プルミエール・ダンスーズの時代は確かに長かったけれど、その間に自分は成長することができたな、と思っています。 オニール八菜 東京に生まれ、3歳でバレエを習い始める。2001年ニュージーランドに引っ越し、オーストラリア・バレエ学校に学ぶ。09年、ローザンヌ国際バレエコンクールで優勝。契約団員を2年務めた後、13年パリ・オペラ座バレエ団に正式入団する。14年コリフェ、15年スジェ、16年プルミエール・ダンスーズに昇級。23年3月2日、公演「ジョージ・バランシン」で『バレエ・アンペリアル』を踊りエトワールに任命された。 photography: ©James Bort/Opéra national de Paris Instagram: @hannah87oneill
editing: Mariko Omura