【オニール八菜連載 vol.1】4つの国、4つの都市で、世界が舞台のバレエ人生。
● オーストラリア、メルボルン時代
ー バレエ学校時代、コンクールにいくつか参加しています。なぜでしょうか? コンクールはニュージーランド時代から出ていてました。オーストラリア時代は、学校からローザンヌとYAGPに出ました。そのほかにも小規模のにいくつか......。学校の発表会を除いては舞台で踊る機会がないので、コンクールというのはその良い機会だったんです。優勝したいとか賞が目的ではなくって。なぜ踊りをやってるのかというと、それは公演をするためなのだから。コンクールのために稽古をたくさんする必要があったけれど、小さい頃からそうした仕事が好きだったのかもしれません。 ー 16歳の時にオーストラリアで撮影された写真を見ると、いまとあまり変わっていないように見えます。 いいことなのか悪いことなのかよくわからないけれど、生まれた時から顔が全然変わってないんです(笑)。この撮影で着てるのはローザンヌのコンテンポラリーのヴァリエーションの時のコスチュームですね。コンクールの後オーストラリアに帰ったら、新聞とかいくつかの取材があって、この写真はその時のひとつです。ローザンヌのコンクールで初めてヨーロッパに来て、コンクールの後パリとロンドンに寄ったんです。その時にああヨーロッパで踊りたいな、という気持ちが生まれて......それでバレエ団のディレクターが私を気に入ってくれていることは知っていたけれど、学校の最後の年の始めにオーストラリア・バレエ学校の校長先生のところに行って、ほかもチャレンジしてみたいと告げました。先生からは「そうくるかなと思ってた」という反応だったので、これには助けられた気持ちがしました。 ー オペラ座の外部入団試験の結果、契約団員の提案があったのですね? そうなんです、オペラ座のコンクールを受けた翌日に、パリからシンガポール経由でメルボルンに戻る時でした。ちょうどシンガポールの空港の乗り換えの待ち時間の時に、フランスの電話番号から電話がかかってきたんですね。ローラン・イレール(当時のメートル・ド・バレエ)からで、その瞬間、私の答えに迷いはなかったですね。ただ、まだオーストラリア・バレエ学校の生徒なので学校にいったんは戻る必要がある、とは伝えましたけど。両親に相談することもなく自分で決めて返答しました。