「ええねん、ええねん」ダウン症の弟が、初めて稼いだ大金でおごってくれた“マクドの味”
カレンダー職人は、温泉に行きたい
職人の朝は早い。弟はたらふく朝ごはんをたいらげ、腹を出してソファに寝っ転がったあと、ようやく取りかかった。左に数字の見本を置き、職人はそれをていねいにペンで書き写す。 「のどかわいた」 職人が所望するので、わたしはとっておきである青森産ストレートりんごジュースを提供した。 ノンブル文字の時は、0から9までの文字をそれぞれ4パターンほど書くだけだったが、今回依頼されたカレンダーでは、1から31までの文字を12パターンすべて書くことになった。372文字。 職人の集中力は短い。空気を読まない犬が遊びにくると、わしゃわしゃなでる。犬が遊びにこなくても、10分くらい書いたら、10分の休憩をはさむ。進み具合は、10文字くらいである。職人......手を......手を動かしてください! 数字だけではなく、「月曜」から「金曜」までの漢字も、職人は見様見真似で習得する。弟にとっては、25歳にしてはじめて漢字を習っているのだ。途中、職人の手は、完全に沈黙した。飽きあそばされたのだ。 「おつかれー。残りは明日やね。なんか、いるもんある?」 せめて今夜は、職人の好物でもごちそうしようと思った。 「おんせん」 「え?」 「おんせん」 すぐさま温泉宿を予約した。きっと職人の手は、わたしには想像もできないくらいの疲労に見舞われたのだ......。温泉で癒やさねばならない。かの夏目漱石も、湯治に頼ったという。きっとそういうことだ。旅館の受付でクレジットカードを差し出しながら、わたしは己に言い聞かせる。 職人の喉は渇きやすい。湯上がりにジュースをひたすら飲んでいた。ドリンクバーを制覇していた。このままジュースで酔っ払いあそばされるのではないかと心配になった。ギアを上げよう。褒めて、褒めて、盛り上げることにした。 「職人!お上手です! 今日は筆が乗ってます! あーッ、斬新なトメ&ハライ、しびれるゥ!」 筆の遅い文豪をたきつける、昭和の編集者である。ちょっと待て。手伝ってしもてるけど、なぜわたしが自腹で温泉代を払ってまで、中間管理職を務めねばならんのだ。カレンダー素材が完成したのは、夜更けだった。そして。弟の書いたカレンダーは、立派な手帳になった。 「365にち」という素敵なタイトルで。弟に完成品を渡すと、「ぼくのー? マジで?」びっくりしていた。マジだよ。姉ちゃんは10冊買ったよ。同じ手帳を10冊買うなんて、初めてのことだよ。