NHK大河『麒麟がくる』 休止直前に投げ掛けられた「2つの桶狭間」の謎
現地ではガイドがそれぞれ解説するも「奇襲」で一致?
こうして2つの古戦場公園が並存し、今はそれぞれの公園で、ボランティアガイドが地元郷土史家による説を観光客などへ説明しています。その説をかいつまんで紹介しましょう。 豊明説は「合戦当日、義元軍は沓掛城を出て山中を大高城へ向け進んだ。長い隊列の先頭主力部隊が、緑区の桶狭間あたりまで進んだときに、信長配下の一部部隊が先頭部隊に攻撃を仕掛けてきたため行軍が止まり、後方の義元はちょうど昼時でもあり、古戦場伝説地で休憩することに。その情報をつかんだ信長が、北側の山中を密かに迂回して、山上から駆け下りて義元を討った」というもの。現在は日本陸軍説ではなく、太田輝夫氏という地元研究者の説となっています。 緑区説は「沓掛城を出た義元本隊が古くからの街道である大高道を通って桶狭間に至り、西側の3つの山に前衛部隊を置き、義元自身は古戦場公園の東側にある山の中腹に本陣を置いた。その情報をつかんだ信長は、雨の中、山中を迂回して近づき、義元本陣右翼を急襲した」とします。今年101歳で亡くなった郷土史家の梶野渡氏の説で、名古屋市の社会科教科書副読本でも採用されています。今の名古屋の中学生は「桶狭間の戦い」といえばこう学んでいるというわけです。 どちらの説も正面攻撃ではなく、諜報活動の結果、義元の位置をつかんだ信長が迂回して奇襲したとしています。地元の地形などを熟知すると、正面攻撃ではどう考えても義元を討ち取れない、となってしまうからでしょう。
新たに「義元撤退中」説も出て混沌とした戦いに
そんな中、昨年10月に雑誌『歴史群像』で、これまでのいずれとも違う説が発表されました。考えたのは、かぎや散人(ペンネーム)という、やはり地元の研究者です。この説は『信長公記』の中でも少し内容が異なる『天理本』と呼ばれる写本(原書を書き写して現在に伝わっているもの)を基に考えられていますが、ユニークなのは義元の動きです。「義元は沓掛城には宿泊せず、大高道を通って前日に大高城に入った。戦いの日の早朝に大高城から出陣し、丸根砦・鷲津砦を助けに来るはずの信長を、漆山という場所で陣を張って待ち構えたものの、信長は来なかった。砦が落ちて大高城の開放は成功したので、漆山から高根山、桶狭間山と本陣を移動させながら撤退することに。昼過ぎに桶狭間山の山頂まで退いたとき、豪雨に姿を隠した信長に近づかれ、雨が上がると同時に側面から強襲され討ち取られた」とし、『信長公記』の記述に近い流れで謎解きをしています。 正面攻撃説を含め、これまでのほとんどの説が義元は尾張攻めを目的としていたとしますが、実は撤退中だったとするのがこの説独自の考え方です。『信長公記』では信長が攻撃前に「敵は朝から働いて疲れているから少数でも勝てる」と訓示しますが、地元説でも正面攻撃説でも、義元は合戦当日の昼前に沓掛城を出たとするので、これを「信長の勘違い」とか「味方を鼓舞するための方便」と説明します。しかし、信長の勘違いをわざわざ本に書いて残すでしょうか。義元が撤退中であるなら、まさに信長の言う通りと納得できるのですが、さて。 ドラマでは家康が今川を裏切りそうになりましたが、本当に裏切ったからこそ義元が討たれたのだ、という人もいます。それくらいのことがないと信長の大勝利は考えられない、と。合戦シーンの素晴らしさで、なんとなく信長の勝利に納得してしまいましたが、真相は「本能寺の変」と同様にまだ謎に包まれたままなのです。 (水野誠志朗/nameken)