ジャパネットの事業承継 親子が衝突したら距離を120キロ離す
旭人氏:中学、高校の間は、寮生活をしていて、両親と離れていたんです。同じ九州ですが、福岡県にある私立中高一貫校に進学したので。だから、反抗期らしい反抗期がなかったんです。 星野氏:反抗しようにも、反抗する相手が近くにいなかった。 旭人氏:そうですね。だから、小学生のときに抱いた「親のために後を継ぐ」という意識のまま、大学受験の時期を迎えて、あるときふと「それではダメだ」と思ったんです。 ●「親のため」に頑張ると「親のせい」にしてしまう 旭人氏:「親のため」という意識で頑張っていると、うまくいかなかったときに「親のせい」にしてしまうだろう。それはよくないと、高校生のときに思ったんです。そのときから「後を継ぐのは自分の選択なんだ」と、自分に言い聞かせるようになりました。 ただ、「自分の選択」として後を継ぐために何をしたらいいのかというと、よく分からなくて、「とりあえず東大に行こう」と考え、東京大学を受験しました。東大に行ったら、社員の人たちが信頼してついてきてくれるんじゃないかと思ったんですね。 星野氏:ということは、継ぐことについて迷った時期はほぼないのですね。 旭人氏:そうですね、入社して父とぶつかるまでは、迷いませんでした。 星野氏:進学先も「後を継ぐために」という視点で選んだ。その後は? 旭人氏:新卒で野村証券に就職したのですが、それも「社員のみんなに認めてもらうため」でした。この頃には、ジャパネットはかなり大きい企業になっていたので、コネで就職したと思われたくなかったんです。ジャパネットのコネが一番効きそうにない業界はどこかと考えて、証券業界にしました。野村証券に勤めてから、米国留学を経て、ジャパネットに入社しました。25歳のときです。 星野氏:入社のきっかけは? 旭人氏:情報流出事件です。2004年、ジャパネットから約51万人分の個人情報が流出していたことが発覚し、大きく報道もされました。そのとき、僕はたまたま免許更新のため、米国留学から一時帰国していて、すぐさま(長崎県)佐世保(市)の本社に向かったんです。そこから急遽(きゅうきょ)、社内に設置した事件調査委員会のメンバーとなり、そのまま入社しました。 星野氏:最初は、どんなポジションでしたか? 旭人氏:社長室長で、部下を4人ほど付けてもらいました。 星野氏:入社してみて驚いたことや、今も覚えていることなどはありますか。 旭人氏:そうですね……。 ●「父」と「父以外の人」の2種類しかない 旭人氏:社長室長になってすぐ、全部署から週報を出してもらうことにしたんです。会社全体のことを知りたいと思って。ところが、各部署の責任者に「週報を出してください」と頼んでも、なかなか出てきません。出してくれた人は3割くらい。繰り返し頼んでも、ちょっと強く言っても、全然ダメなんです。でも、それは恐らく僕の頼みだから。父から「提出してください」と依頼すれば、全員、すぐ出してくれるんだろうと思ったんです。父の言うことならば、みんな、すぐに従いましたから。 当時のジャパネットは、いわゆる「文鎮型組織」の典型で、「父」と「父以外」という2種類の人間しか存在せず、「父以外」の人の話は、全然、聞いてもらえなかったんです。想像以上に父親中心の企業文化に驚いたことは、強烈に覚えています。 星野氏:その頃から、お父さんとバチバチと衝突していたのですか。 旭人氏:ええ、父とは入社早々から、衝突していました。でも、そのときはまだ父と僕が衝突していることは、社員に知られていませんでした。知っているのは、役員と家族だけ。社員にも分かってしまうほど対立するのは、ずっと後のことです。 入社して2年ほどしたとき、父と僕の様子を見かねた母が、僕を父のいる佐世保の本社から離すべきだと、言い出したんです。それで僕は転勤して、福岡市にあったコールセンターを任されることになりました。母には「実力を証明しなさい。実績がないのにお父さんと対等にしゃべることは許されない」と言われました。それから7年くらい、父とは別々に仕事をしたんです。 星野氏:別々というのは、一応、同じ会社の中にいるけれど、別の事業をしている、ということですか。