ジャパネットの事業承継 親子が衝突したら距離を120キロ離す
旭人氏:それはもう不思議なくらい、「こんなのもう、やってられない!」と、気持ちに限界がきた瞬間、電話が鳴って、父と話すうち、気持ちが落ち着いていく。そもそも誰のせいだったんだっけ、という話ではありますが。 もう一つ、大きかったと思うのは、株の承継が一番衝突していた時期の5~6年前にほぼ終わっていたことです。僕が株を持つことで、父からの信頼を確認できましたし、ぶつかるにしても、互いに節度を保てた気がします。 星野氏:なるほど。少し話を遡って、そもそも旭人さんが、お父さんの会社を継ぐことを意識したのは、いつごろでしょうか。というのも、オーナー経営者の子に生まれた人の人生には、「継ぐという選択」と「継がないという選択」があると思います。その選択肢を旭人さんが意識するようになった時期を知りたいのですが。 旭人氏:小学校の2年生とか、3年生のときから「継ぎたい」と思っていて、公言していました。姉と妹がいる3人きょうだいなんですが、僕はとりわけ両親のことが大好きで、大好きな両親が、人生を懸けてつくっている会社を継ぎたかった。というか、「継ぎたい」と僕が言ったら、大好きな両親が喜んでくれるだろう、という感覚だったと思います。 ジャパネットは、僕が7歳のとき、父が長崎県佐世保市内に開いたカメラ店から始まっています。当時は、店舗兼自宅によく飲みに来ていた社員にかわいがってもらっていて、だから「社長になる」と言い出したのでしょう。 星野氏:お父さんから、「次はお前だぞ」というシグナルみたいなものはありましたか。というのも、私は小さいとき、祖父にあちこち連れ回され、仕事で関係のある人たちによく紹介されたんです。そのとき「孫の佳路です」とは紹介されず、必ず「うちの4代目です」と紹介するのですね。それで「自分は4代目なんだ」と意識したところがあります。 旭人氏:父は、そういうシグナルを全然、出さなかったですね。ただ、うちは母が教育担当で、「ちゃんと勉強しないと、後も継げないからね」といったことを、僕に言っていました。「無条件で継がせるつもりはない」というメッセージは、母から受け取りました。 星野氏:逆にいえば、お母さまのメッセージからは「自分が継ぐ」という可能性がちらちらと見えた。 旭人氏:そうですね。父は、ずっと「優しい人」でしかなかったんですが、「継ぎたいなら、頑張らないといけない」というイメージは、ずっと持っていました。それは、母のシグナルに起因していたのでしょう。 ●「継ぐ/継がない」という選択肢がある 星野氏:そのシグナルは、大切だと思います。親がシグナルを発しないと、子どもには「継ぐ/継がない」という選択肢が存在することすら分かりません。 旭人氏:ええ、母親の存在は、ファミリービジネスにおいて重要であると、学術研究でも指摘されていますよね。うちはまさに、母がいなかったらスムーズに事業承継できなかったケースだと思います。 星野氏:ここまで伺ったところによれば、旭人さんは、両親が大好きで、大好きな両親を喜ばせたいから、後を継ごうと思った。けれど、小学生のときはそうでも、中学生、高校生になったら、反抗期があります。反抗期には、親が経営者だからといって、自分の人生を勝手に決められたくないといった気持ちが生まれるものではないでしょうか。