“聴こえる子ども”だった作家が生まれて初めて感じた「母が“聴こえない”こと」の意味
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づく──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
弱音は吐かないものの決して気が強いわけでもなく、むしろ他人よりも気弱な母には、それでもなんでも自分ひとりでやってしまおうとするところがあった。もしかしたらそれは、祖父母の教育が関係していたのかもしれない。彼らは聴こえない母を「聴こえるようにしよう」と一生懸命だったらしい。ぼくが生まれる前、母が子どもだった頃は、いまよりも聴覚障害者への理解が進んでおらず、聴こえないことは努力次第で“治る”と勘違いする人もいた。 でも、それは無理なことだ。障害は、治るものではない。 けれど、そんな教育を受けてきた母は、なるべく周囲に迷惑をかけないように、と考える人だった。だから、困っていても口にしない。気軽にSOSを出さず、なんとかして自分で解決しようとしてしまう。 それでも、努力だけではどうしたってカバーできないことがあった。それは“音”にまつわることだ。 たとえば、母は電話に対応することができない。あるいは、来客があったとき、相手の話を聴き取ることができない。耳が聴こえないのだから、それは仕方ないことだろう。 だからこそ、母の代わりにそれらに対応することが、幼いぼくの役割だった。ただ、祖父母や父、そして母本人からも「代わりにやってね」と言われたことは一度もない。母を守りたい一心で、自発的にやっていたことだ。 そもそも、両親はぼくが生まれた後、祖父母から「心配だから」と説得され、同居することになったという。祖父母も聴こえない夫婦がどのように子育てをしていくのか、壁にぶつからないのか、なによりも聴こえる子どもにどうやって言葉を教えるのか祖父母も不安だったのだろう。気づいた頃には、ぼくは両親と祖父母に囲まれて生活をしていた。 電話や来客に対応するのは、もっぱら祖母の役目だった。もともとお喋り好きということもあって、電話が鳴れば瞬時に取るし、お客さんが遊びに来れば玄関先で延々と話している。ぼくはそんな光景を見て育った。 けれど、祖母も常に家にいるわけではない。友人が多い彼女は、しょっちゅう家を留守にする。祖父は祖父で仕事をしていたため、いないことが多い。父も仕事に一生懸命だった。そうなると、家にいるのはぼくと母のふたりだけ。そんな状況でぼくが電話に出たり、来客の対応をしたりするようになっていったのは、すごく自然なことだった。 リビングでけたたましく電話が鳴ったら、「もしもし、五十嵐でございます」と受ける。その言い回しは祖母のものだ。まさか幼いぼくに電話対応をさせようだなんて考えてもいなかった祖母は、受け答えについてきちんとぼくに教えたことがない。でも、ぼくは祖母の様子を見てそれを学び取り、いつの間にか一丁前に対応できるようになっていた。 すると、電話口の人がクスクス笑いながら、「大ちゃん、おばあちゃんそっくりね。偉いねぇ」などと言う。たしかにまだ幼稚園に通っているような子どもが“おばあちゃん言葉”で受け答えする様子は微笑ましいし、ちょっと面白いだろう。そう褒められるたびに気をよくし、率先して対応するようになっていった。