“聴こえる子ども”だった作家が生まれて初めて感じた「母が“聴こえない”こと」の意味
一方で、そうやって電話にも出られるようになり、来客時もわけがわからないまま相手の話に耳を傾けるようになっていくと、それができない母が“ふつうではない”のだと認識するようにもなった。 あるとき、こんなことがあった。 いつものように母とふたりでテレビを見ていると、インターフォンが鳴った。 ──誰か来たみたい。 来客があったことを母に伝え、玄関に向かう。 そこにいたのは、なにかの営業職の人だったと記憶している。スーツを着た大人の男性がニコニコしながら立っていて、「お父さんかお母さんはいる?」と訊いてきた。そして、遅れてやってきた母を認めると、一方的に話しはじめた。もちろん、母にはその内容が理解できない。 「あの……お母さん、耳が聴こえないんです」 そう告げると、その人は少し驚いた顔をして、パンフレットと書類のようなものを差し出した。そしてひとこと簡単な説明を添え、こう言ったのだ。 「お母さんに見てもらいたいんだけど、これ、意味わかるかなぁ?」 母は耳が聴こえないだけで、日本語を読むことはできる。ただし、彼女はうまく日本語の文章を理解できないところがあった。それははっきり言えば、祖父母の教育のせいだ。彼らは母の聴覚障害が治るものだと信じ、彼女を聴覚障害者が通うろう学校ではなく、聴者が通う小学校に入れた。そこでの授業は日本語の音声で行われる。聴こえない母はその内容を理解することができず、結果として、日本語がわからないまま育った。 高学年になってもきちんとした日本語が書けない母を見かねた祖父母は、諦(あきら)めて彼女をろう学校に入れた。そこで手話を身につけた母は、ようやくコミュニケーションの手段を覚えていった。 だから、母の第一言語はあくまでも手話である。とはいえ、日本語の文章がまったく理解できないわけではない。ニュアンスをうまく汲み取れないことはあるものの、そこに書かれていることがわからないわけではないのだ。“秘密の手紙交換”だってできていたのだし。 それなのに、どうしてこんなことを言われなくちゃいけないのだろう。母のことをまるで“馬鹿な人”のように扱われたことが、とてもショックだった。 聴こえない母は、彼が発した言葉の意味もわからないまま、パンフレットを笑顔で受け取った。その瞬間、彼はホッとした表情を浮かべ、そそくさと出て行ってしまった。 静かになった玄関先で、母が促す。 ──さぁ、行こう? ──うん。 再び母がテレビに目を向ける。どこまで理解できているのかわからないけれど、母は楽しそうに目を細めている。 全然楽しくなかった。もしかしたら、母が“聴こえない”ことは想像以上に大きな意味を持っているのかもしれない。生まれて初めて、そう思った。 ぼくはなんだか暗い気持ちになって、チカチカするテレビ画面をぼんやり眺めた。