大阪万博を照らした原子力の灯。「親であり、わが子」だった原発は日本を支え、事故で否定された 「操縦士」が語る激動の半生、2025年の来場者に伝えたい言葉とは
1970年8月8日、午前11時20分ごろ。大阪府吹田市の万博会場にある巨大な電光掲示板が光を放ち、こんなメッセージが表示された。「本日、関西電力の美浜発電所から原子力の電気が試送電されてきました」。広場を埋め尽くしていた来場者からは歓声と拍手が自然とわき起こった。 【写真】「足が太いからクビ」非人道的ともいえる扱いがあったことは、ほとんど知られていない 1970年大阪万博の光と影 次の万博への教訓を引き出すだけでは… 18年
その少し前、約100キロ北東の福井県美浜町にある、関電美浜原発1号機の中央制御室。運転員のリーダーがスイッチをひねる。「ただいま美浜1号機は並列しました」。発電機を送電系統に接続する「並列」を知らせる放送が流れた。その瞬間、関係者と記者団合わせて100人近くが詰めかけた室内は歓喜と安堵(あんど)の声であふれ返った。 原子炉出力担当の稲田仁さんは当時30歳。張り詰めた緊張から解かれて、ようやく息を吐いた。原子炉、タービンに異常はなし。「やっとこの日が来た」。汗でぬれた作業服はまだらに変色していた。背後で見守っていた米国メーカーや関電の幹部らが、誇らしげに握手を交わす。「万博に原子力の灯を」―。この日に向けて毎日唱えてきた合言葉が、ついに現実となった瞬間だった。 2度の原爆投下という被爆の歴史を抱えながら、日本は戦後10年で原子力の平和利用へとかじを切った。子どもたちが「鉄腕アトム」の漫画に夢中になり、オイルショックで電力の価値を思い知った時代。東日本大震災がその恐ろしさを突き付けるまで、原子力は国を支える「夢のエネルギー」だった。
関西の人々が不自由なく電気を使えるようにと、ただ原発を動かすことに心血を注いだ美浜1号機の「操縦士」。万博会場を照らした「パイオニア」の1号機を、関係者は「M1」と呼ぶ。2025年、大阪に再びやってくる万博でも、原子力は使われる。激動の半世紀を原発と共に生きた操縦士の一人を訪ねると、万博の来場者に伝えたいという言葉を託された。(共同通信=伊藤怜奈) ▽「憧れの存在」だった海 昨年12月、私(記者)は香川県の小豆島へ向かっていた。勤務する大阪から、電車と高速艇を乗り継いで4時間弱。島の西部にある土庄港に降り立つと、黒い帽子を目深にかぶった男性が「こっち、こっち」と手を振っていた。 稲田仁さん(84)。鳥取県米子市出身で、1958年、関電に入社した。十数年前に小豆島に土地を購入した理由は「男のロマン」。大阪の自宅と行き来する生活を送る。 シルバーの軽自動車を運転しながら、車窓に見える自分の畑を紹介してくれる。「小豆島は暖かいから。オリーブとレモンをちょっとだけね」。「着いたで」と言われて車を降りると、海が近くて驚いた。小豆島に来たのは初めてなのに、なぜか懐かしい。水平線の先に、高松港から向かってくるフェリーが小さく見えた。