大阪万博を照らした原子力の灯。「親であり、わが子」だった原発は日本を支え、事故で否定された 「操縦士」が語る激動の半生、2025年の来場者に伝えたい言葉とは
風の音に負けないよう声を張り上げた。「この景色、見覚えあります」。稲田さんから返ってきたのは「美浜やろ」。言葉は続いた。「だからここにしたんや」 私は2019年から3年間、福井県で働いた。3年目は「原発銀座」と呼ばれる県南部が拠点だった。若狭湾のやや東寄りに位置する美浜町の海は不思議と飽きない魅力があり、よく足を運んだ。聞くと、海は内陸部出身の稲田さんにとって「憧れの存在」だという。戦後の貧しい中、父親と貨物列車に揺られて見に行った鳥取県の弓ケ浜が最初の記憶だ。釣りが趣味で、就職後は美浜原発近くの水晶浜沿いに別荘も買った。稲田さんは「20年美浜に住んだから、海がないと駄目になったね」と照れくさそうに教えてくれた。 ▽「原子力をやりたいやつはいるか」 家に入ると、稲田さんはコーヒーと一緒に分厚いアルバムを数冊持ってきた。関電時代の写真や映像をまとめたものだ。「久しぶりに開くわ」。しみじみとアルバムに触れ、ページをめくり始めた。
稲田さんは地元・米子の工業高校で電気学を専攻。高校3年生のとき、同級生と富山県黒部市の関電黒部川第4発電所、通称「くろよん」建設の記録映画を見た。未踏の峡谷にダムを造る世紀の大工事。「自分も一員に」と就職を決めた。 当時、業績が好調だった電力会社の人気はすさまじく、同期は500人ほどいた。初めの3年間は大阪で電柱の点検や修理を担当した。初任給は8500円。下宿代を引けばいくらも残らず、財布の味方は50円のラーメンだった。 原子力の足音が聞こえてきたのは1962年。福井県美浜町に関電の原発が建つことが決まった。ちょうど兵庫県の火力発電所で働いていた頃、上司から呼びかけがあった。「原子力をやりたい気概のあるやつはいるか」。考えるより先に声が出た。「やります」 勤務を命じられた先は、茨城県東海村にある日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)敷地内にあった「原子炉研修所」。既に建設が決まっていた美浜1号機(M1)に知識と技術を持ち帰る「M1要員」として、約2年間住み込みで座学と実習に明け暮れた。美浜町沿岸部での建設工事は着々と進み、研修が終わる頃には鉄筋がコンクリートに埋められて見えなくなり、配管を張り巡らせる作業が始まっていた。